17


靴に履き替えると、一つの影があたしの前に立ちはだかった。
「咲原さん」
「湖南さん・・・どうかしたの?」
出席順で席も前後なのにほとんど話をしたこともない湖南さんが自ら話しかけてきたので、あたしは驚きを隠せなかった。
「ちょっといい?」
「え、うん」

あたしは湖南さんの後ろをついて歩く。
さすが、というか手足が長い。そして細い。
湖南さんは温水プールのある第2体育館のところで足を止めてあたしを振り返る。今日は部活もないのか、いつも体育科の生徒でにぎやかなこの場所もしーんと静まりかえっている。

「こっち」
「入っちゃっていいの?」
「ええ」

誰もいない体育館にすたすたと入っていく湖南さんに、あたしはただついていくことしかできない。
再び湖南さんが立ち止まったのは、体育館のプール監視室の前だった。
あたしはこのとき、走って逃げればまだよかったのかもしれない。

「咲原さん、ごめんね」
「え?」
「あなたを呼んでくるように言われたの」
湖南さんは抑揚のない淡々とした声でそう言うと、ゆっくりと扉を開けた。
そしてそこには、原田先生が立っていた。
「もう、行っていいぞ」
原田先生は湖南さんに向かって冷たく言い放つ。
湖南さんは少し顔を哀しげに歪めながら、頭を下げてその場を去っていった。



「久しぶりだな」

原田先生は、低い声でそう言うと、監視室のドアを閉めて鍵を閉めた。
監視室には二つの扉がある。一つは今の体育館の入り口側の扉。そしてもう一つは開ければそこはもう温水プール独特の熱気溢れるプールサイドだ。
この場所はプールの様子がよく見渡せる。
誰もいない。
あたしと原田先生以外。
あたしは夏休み前の出来事が頭をよぎった。
あの時、この人は「今日のところはな」と言ったのだ。
いつかは原田先生に呼び出されるだろう、とは思っていた。この前のように突然わけの分からない状態ではない。

「まったく天野祥吾はやっかいな存在で困るよ」
「え?」
どうしてこの人の口から先生の名前が出てくるのだろう。
「聞いてないのか」
なんのこと?
あたしがなにも答えずにいると、原田先生は唇の端を少し上げ、意味ありげに微笑んだ。
不気味。

「先生は私に何か用があるんですか」
「用か・・・あるとすれば君じゃないな」
「じゃあなぜ私にこだわるんですか。水泳の授業は終わったし、もう関係ないと思いますけど」
「挑戦的な瞳だな。美和子はそんな目はしていなかった。いつも儚げで、妖精のように美しかった」
「私は母とは違います」
「そうだな。君は父親の存在をどこまで聞かされている?」
「・・・」

心の深くまで見透かされそうな鋭い視線がつきささる。
「その様子では何も聞かされていないようだな。まあそうだろうな。彼女の性格ならまず言うはずはない」
「先生はどこまで母を知っているんですか」
「・・・さあな。少なくとも君よりは知っていることは多いだろうな」
「どうして・・・」
「オレが、君の父親だとしたら?」
「え?」

あたしは一瞬耳を疑った。
どういうこと?今、この人はなんと言った?
父親?

父親と言った?



「嘘」
あたしが動揺するのを見て、原田先生はにやりと笑みを浮かべた。
「嘘、そんなの嘘」
こんな男が父親だなんて。

「アンタが父親のはずない・・・」

間違っても、お母さんがこんな人を好きになったなんて思いたくない。

「口の利き方には気をつけろ」
「んっ」

思いっきり首をつかまれる。
このまま首を絞められ、殺されるんじゃないかというほど、力強い。

「は、は・・・な・・・して」
「天野祥吾とは別れろ。今後一切授業以外で関わるな」
少し力が緩み、あたしは思いっきり息を吸った。
「なんで、アンタなんかに指図されなきゃいけないの・・・」


  ”パアアン!!”

平手があたしの頬に衝撃を与える。
「生意気な口を利くなと言ってるだろう!」
あたしは思いっきり体勢を崩して、床に倒れ込んでしまった。
さっきまで首を捕まれていたところも頬もヒリヒリとする。
こんなの体罰になるんじゃないの。
あーだれか証拠のビデオでも回しててくれないかな、なんて妙に落ち着いたことを考えてしまうあたり、もうあまり脳が働いていないのかもしれない。
いろんな衝撃が大きすぎる。

「誘っているのか」
見上げると原田先生が冷たい氷のような目であたしを見下ろしている。
あたしはふと制服のスカートがめくれあがり太ももが丸見えにまっているのに気づく。
あたしは勢いよく立ち上がると、原田先生を思いっきり突き飛ばし、そのまま目の前のドアのところに走り、鍵を開ける。こっちはプール側だったが、この際どこでもいい。この場所で原田先生と二人きりというのは非常に危険な予感がした。
もわっと生暖かい空気が流れこむ。
躊躇することなくプールサイドに出ると、あたしはスカートのポケットに手を入れる。
その瞬間、腕を掴まれ、あたしはとっさにボタンを押した。
間違っていなければ着信履歴、発信を押したはずだ。

「逃げられると思うな。この時間なら生徒も教師もほとんど残ってはいないだろうな」
ぞぞっと、悪寒が走る。
「はなして!」

あたしはその言葉と同時に思いっきり彼の足を蹴り飛ばす。
イキナリのことで驚いたのかバランスの崩れた原田先生はあたしの腕を放した。
その反動であたしは自分の身体がゆっくりと倒れるのが分かった。

あ、水。
落ちる。
吸い込まれる。

 ”ざっぱあああああああん!!”

あたしはプールの中に真っ逆さま。

きらきらと光の粒が頭上に見えた。
あたしはこの光景をいつか見た気がする。

手を伸ばして掴もうとするけど、届かない。
身体が思うように動かない。
もう、あの幼い頃の自分とは違うのに。
全く泳ぐことができなかったあの頃とは・・・。
必死でもがいてみても浮き上がれない。
その時、ゆらゆらと目の前に制服のリボンがたゆたう。
ああ、そうか。
あたしは、いま制服を着ているんだ。

苦しい。


息が、できない。



   


   


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