18


・・・き。
・・・みつき。

あたしを呼ぶ声。
懐かしいこの声はお母さん?
まさかお母さんが迎えにきたってことはないよね。

「美月?」
「・・・」
「大丈夫か?」
「祥ちゃん先生・・・」
あたしを見下ろす心配そうな表情の持ち主。
「懐かしいな、その呼び方」

ああ、そうか。
夢を、見ていた。
幼い頃に、溺れた夢を。
あたしは水着を着ていたとはいえ、足も立たないプールに落ちた。
まるで水が呼んでいるかのように、吸い込まれるように。
その時、初めてお母さんが言っている意味がわかった。

水の中には宝石があるのよ。
きらきら光る空気の粒がいっぱいに浮き上がるの。
どんな高価な宝石よりもお母さんは大好き。

「夢でも見てたのか?」
「うん。あたしは小学生だった」
小学生の頃、あたしは先生のことを祥ちゃんと呼んでいた。
だけど、お母さんに先生と呼びなさいと叱られて、祥ちゃん先生と呼ぶようになった。
ぼんやりと目の前に広がるのは薄暗い天井。

「ここって学校?」
「いや、病院だよ」
「病院?どうして・・・」
プール。
目の前には誰もいないプール。
あたしはそこに。

「あたし、溺れたの?」
「ああ」
そうか。
だからあんな夢を見たんだ。
あたしは。
湖南さんに呼ばれて、着いた場所には原田先生がいた。

「原田、先生は?」
おそるおそる聞いてみる。
先生の表情が険しくなるのがわかった。
「彼は、おそらく免職処分だろうね」
「ホント?だって」
「当然だろう。美月がこんな目に遭ったんだ。それに俺が駆けつけたときに、生徒会のやつらも何人かいたからな。目撃者がいたんだから今回は逃れられない」
「そうなんだ」

あたしはついでに検査もされていたらしく、頬の腫れと首を掴まれたような跡はしっかりと確認できたそうだ。
それに、自分で飛び込んだわけではないけど、そういう状況下にしたのはあの男が理由だ。
学校ではその理由だけで十分免職に値する。

ぼんやり話を聞いていると、先生がふいに腕時計に目をやった。
ああ、そういえば。
あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。
「今、何時?」
「9時過ぎかな」
「おじいちゃんとおばあちゃんは!?」
あたしは思わず飛び起きた。
「少し前に帰ってもらったよ。二人の代わりに俺が残ったの」
「そうなんだ」
「二人とも訴えてやるとか、かなりお怒りだった。当然だけど」
あの二人ならやりそうだ。少なくともおばあちゃんは怒らせると怖い。

「美月、今後のことは明日話すとして、今日はもう休んだ方がいい」
「え、大丈夫だよ。なんかいっぱい寝た気がするし。って、もしかして消灯時間過ぎてる?」
「美月」
先生の厳しい声。
「・・・ハイ」
先生はあたしの手を握った。
あたしは大人しく、布団をかぶって再び横になろうとしたとき、サイドテーブルに携帯電話が置いてあるのに気がついた。
「先生、携帯ダメになっちゃったね。せっかくくれたのに」
「いいよ、そんなの。また買えばいいんだから」
先生の携帯電話にはちゃんとあたしの最後の着信が残っていたことはあとから知った。



「美月」
「え?」
「無事で良かった」
ふわり。
大きな身体、大きな腕、大きな手があたしを包み込んでくれる。
あたしはその温もりにゆっくりと身をゆだねた。

「先生、心配かけてごめんなさい」

先生はゆっくりとあたしの背中をさすってくれた。
それが心地よくてあたしたちはしばらくそのままだった。
いつも一人になりたくない時に側にいてくれる。
お母さんが亡くなったときもそうだった。
先生はこうやって抱きしめてくれた。
先生にとってはなんでもない行為なのかもしれないけれど、あたしの心は救われる。


それから、なかなか寝付けないあたしのために、先生は昔の話をしようか、と言った。
昔の話?

「初めて会ったときの美月はすごかったよなー。小学生のくせに人のこと、コレ、誰?って睨みつけてくるし」
「ぎゃ、言わないでよ。恥ずかしいんだから」

いきなりいたずらっぽく話始めた先生の言葉に思わずビックリする。
その時のことはもう顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
あの頃は、とてもとても、子どもだった。

「生意気なガキだなーと思ったけど」
そりゃそー思うでしょうよ。
あたしだってそう思うもん。
だって、あの時は、なんというか心がすさんでて。
友達には裏切られるし、学校に行けないどころか外出もあんまりできなくて。
そしたら家庭教師とか言われるし。

「美月は、家庭教師なんて勉強できない子みたいに思って嫌だったんだろ?」
「・・・うん」

最初こそ反抗的だったけど、あたしはすぐに先生が好きになった。
学校に行かなくなったのは、もう友達と関わりたくなかったのもあるけど、先生に側にいてほしかったから。

先生はどこまで知ってるのかわからなかったけど、その日原田先生との間の会話を一瞬だけでも忘れさせようと、昔の話をしよう、なんて言ったのだと思った。
話しているうちにうつらうつらしてきた。
やっぱり自分で思っているより疲れているのかもしれない。
あたしはゆっくりと瞼を閉じた。


小学生の頃のように、先生の手を握りしめて。




   




   


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