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「君がまさか天野と付き合っていたとはね」

体育科の教官室に入ると、第一声がそれだった。
教官室には原田先生以外誰もいない。他の先生たちはおそらく部活の指導に行ったのだろう。
はっきり言って、『補習』だなんてあたしを呼び出すための口実にすぎなかった。
それにしても、天野先生とつきあっているだなんて、どうして思うのだろう。
この間、天野先生に補習に出られないと、断ってもらったから?
それとも、一緒にいるところを見られたとか?

「付き合ってなんか・・・」
「君は顔だけは母親似だな」
「え?」

あたしが否定する前に原田先生は想像もしていなかったことを言ってきた。

「咲原美和子は校内でも1、2位を争うほどの美女だった」
「母を、知っているんですか?」
驚いた。
もちろん、母を知っている人は多いだろう。母は高校時代から芸能活動をしていたし、ドラマにだって出ていたっておばあちゃんから聞いている。
けど、原田先生の言い方はそういう一般的に知っているという感じではなかった。

「彼女は1年のとき、水泳部だった」
水泳部?
あたしはいきなり何を言われているのか分からなくなった。
「でも母は芸術科の芸能コースにいたって」
芸能コースは仕事が課外活動、つまり部活動として認められることになっている。水泳部にいたというのは初耳だ。

「それは2年からだ。普通科から転科したんだ」

確かにお母さんは泳ぐのが上手だった。中学の時は水泳部だったし。

「彼女は嫌がっていたけどね、水泳をやると腕に筋肉がつくから。けれど、強引に誘われて1年の間だけ水泳部にいたんだ」
「そうですか」

だから何だというのだろう。
原田先生はいきなりこんなところにあたしを呼び出して、一体あたしに何を言いたいのだろう。
どうして今更母のことを持ち出してくるのだろう。
あたしはこのとき、気づくべきだった。
なぜ、原田先生が15年以上も昔のことをはっきりと覚えているのか。
なぜ、母である、咲原美和子に執着していたのかを。

「この間、居酒屋で君を見たときビックリしたよ。あまりにもそっくりだったんでね」
「・・・」

居酒屋・・・ああ、あの時やっぱり気づいていたんだ。
ごまかせるような雰囲気じゃない。
あたしは改めて原田先生に抱いていた恐怖にも嫌悪にも似た気持ちになる。

「彼女が入学してきたとき、俺も大卒で着任したばかりで、目を見張ったよ。彼女はすべてが完璧だった。容姿もスタイルも、泳ぎ方も。まるで魚のように水を操っていた。才能があるというのはこういうことだと思い知らされたよ。けれど、咲原美和子はいとも簡単にその才能を捨て、愚かにも芸能活動一本にしぼってしまった」

原田先生の表情が変わっていくのがわかった。
「え?」
先生はあたしを睨みつけるように冷たい視線を向けた。
「芸能界にさえ入らなければ、つまらない男にひっかかって君を産むこともなければ、美人薄命などと言われこの世を去ることもなかっただろうな」
「やっ・・・!」
先生の大きな手のひらがあたしの手首を掴む。
力強い、手。
振りほどこうにもあまりの力の強さに、あたしは顔を歪めてしまうほどだ。

「あ、あたしの父を知っているんですか?」
「父親を知らないのか?」

この人はお母さんのどこまでを知っているのだろう。
力がますます強まっていく。
「痛っ・・・は、はなしてください」
怖い。
今までにない恐怖が襲いかかってくる。
誰か・・・。

「顔はこんなにも似てるのに、君には全く才能は受け継がれていないんだな」
「・・・や、やめてくださ・・・」

両手をつかまれ、あたしは身体ごと壁に押しつけられた。
「その瞳で天野祥吾をたぶらかしたのか。卑しい娘だな」
顔が近づく。
逃れられない身体。
力が入らない。

「や・・・・・・」

その瞬間、あたしは自分の唇をおもいっきり噛んだ。
こんな男に無理矢理期キスされるなんて絶対にイヤだ。

ドンドンドン!!

体育教官室の扉が思いっきり叩かれる。
原田先生は軽く舌打ちをするとあたしの手首を解放した。
ひりひりとした痛みが改めて伝わってくる。

「あの夜、湖南幸恵に告白されたよ」
「え?」
「最近の女子高生は色恋事にしか興味がないのか」

原田先生はドアの前まで歩くとあたしをもう一度見つめた。

「行きなさい。今日のところはな」
そう言って、ドアを開けた。


「あの、咲原さんは・・・」
あたしの耳に飛び込んでくる絵梨の声。
「話をしていただけだ。咲原、いいぞ、もう」
「はい」
あたしは返事だけすると彼の顔を見ることもなく教官室を出た。
「絵梨」
「美月!探したよ、もう〜、行こう」
「うん」

原田先生は、最後に湖南さんとは何もないのだということをあたしに言ったのだ。
弱みを握っているのはあたしではなく、自分だということをあたしに伝えた。
けど、あたしと天野先生にだってやましいことはなにもない。
ただ、どうして原田先生がおじいちゃんやおばあちゃん、あたしも知らない父親のことを知っているようなことを言ったのか。
それだけが気にかかっていた。
解放されても残る手首の痛みがじんじんとしてくる。
絵梨がいてくれてよかった。


「ごめん、あたしもビックリして・・・。美月、大丈夫?」
「うん」
体育科の建物から離れたところでやっと絵梨が口を開いた。
探しているフリをしてあたしを助けてくれた。
「ごめん。ありがと」
「だから行くなって言ったのに」

昼休みに絵梨に話したとき、何度も1人で行っちゃいけないと止められた。
だからばれないように一緒に来てもらっていたのだけど。

「美月」
「え?」
振り返ると、先生が、いた。
「あ、ごめん、あたしが呼んだんだ。なんか心配になって」
「そっか」

先生は笑ってはいなかった。
「送っていくよ、二人とも。少しだけ待ってて」
「うん」
あたしたちはとりあえず教室に戻った。


「柴田君もね心配してたんだよ。最初一緒に行ってくれることになってたんだけど、なんか生徒会の先輩方に強引に連行されちゃって」
「あ、そうなんだ」
柴田君やっぱり生徒会に入るのかな。
でもいなくてよかった。
あんなことを知られたくはない。

「ねえ」
「ん?」
「さっきのこと、天野先生には話したほうがいいよ。やっぱりあの原田、なんかうさんくさいし」
「あ、やっぱり聞こえてた?」
「あー、全部ってわけじゃないけど。ところどころ?」
「そっか」

絵梨は何も言わない。
言わないでくれるところがありがたい。
「美月一人で抱える問題じゃないような気がする」
「うん・・・」
あたしもそう思うけど。
原田先生が、お母さんの名前を出してきたことで、あたしはなんだか嫌な予感がした。


あの人は、お母さんが好きだったのかもしれない。



   




   




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