蒼き月の調べ


波瀾編

第2章



「兄貴の幸せを思うんならさ、別れてくれよ」
 本気で愛を語ろうとしているらしい目の前の女に、尚弥はもう一度告げるが、空音は石のように硬直している。まさかこんな言葉を言われるとは思わなかったのだろう。尚弥とて兄の幸せを願っていないわけではない。単なる嫌がらせをしにきたわけでもない。もちろん空音という少女に興味もあり、ふたりで話をしてみたいという好奇心が多少あったにせよ、このようなことを告げるためにわざわざ距離を置いている海棠家の屋敷を訪ねたりはしなかった。
 金目当てならすぐにわかる。けれども尚弥には空音の意図がさっぱりつかめない。もしも二人が本気で愛し合っているとすれば、それはそれで厄介なことのようにも思えた。自分に影響がなければかまわない。しかし、尚弥がわざわざ出向くきっかけとなったのには理由がある。
 反応がさらに薄くなってしまった空音に、尚弥は仕方ない、という風にその事実を告げる。
「あんたの叔母だって女から俺の勤めてる会社に電話があった」
「叔母、様?」
「ああ、確かにそう言ってたぜ。海棠家に連絡を入れたが門前払いされたってさ。それで俺に仲を取り持ってほしいというようなことを言ってきたが、それは明らかにおかしい。俺は確かに海棠グループの息のかかった会社に勤務はしているが、俺が海棠家の人間だと知っているのは一部の人間だけだ。名前も通称を使ってるくらいだしな。だから外部にはまず知られていないはずの俺の情報をなぜ、あんたの叔母が知ってるんだ?」
「あの、意味がよくわかりません」
「俺もわかんねーからあんたにこうして会いにきたんだろ」
 空音は本気で混乱しているようだった。
「人違いじゃないでしょうか。わたしに叔母はいません。両親は離婚していますし、わたしは母方の祖母にひきとられましたけど、叔母がいるなんて話は一度も聞いたことがありませんから」
「ふーん、じゃあ別れた父方だろうな」
「父方……ですか?」
「母方にいないんじゃそういうことだろ。まあ本当かどうかは知らんが、村上静子と言っていた」
「村上……でも、父方の親戚とは一切縁を切っているので、会うことはまずないだろうって聞いてます」
「そりゃ、あんたが海棠家の婚約者になったってどこからか聞いて、名乗り出てきたに決まってんだろ」
 なんでそんなこともわからないんだ、といい加減尚弥はうんざりしてくる。はっきり言ってこういう女は尚弥の最も苦手とするタイプである。なぜ柊弥がこんなぼけーとした鈍い女を婚約者にしたのか心底謎に思えた。
「どうしてわたしが柊弥さんの婚約者になったら名乗りでるんですか?」
「財産目当てだろう」
「財産……」
 空音は目を丸くさせた。
「別に俺の言う事を信じろと言ってるわけじゃない。叔母と名乗ってきた女が本当にあんたと親戚なのかもわからない。たださ、経験上そういった可能性は大きいってこと」
「……」
「正直そういう面倒には関わりたくないんだ。俺が海棠家と距離を置いている理由のひとつもそれだ。兄貴にもこれ以上面倒ごとを抱え込んでほしくない。ただでさえ、海棠家はごたごたしてて兄貴が背負っているからな。――わかる?あんたは海棠家に面倒事を持ち込んだ種でしかない」
 少々きつい言い方だが、こういう女にははっきり告げた方がいいと判断した。尚弥は言って立ち上がった。空音を見下ろすと、動揺したような瞳と視線が重なった。多少罪悪感のようなものを抱えながらも、尚弥は村上静子の連絡先だけ渡すと、初めと同じように軽い口調でじゃあな、と言い残して部屋を出て行く。
 部屋を出たところで、使用人のひとりに頭を下げられる。片手を挙げて通り過ぎようとしたところで、呼び止められる。
「またお待ちしております」
 以前は多くいた使用人も今は数えるほどしかいない。
 柊弥を中心に変わりつつあるこの海棠家に、複雑な思いを抱えながら尚弥は屋敷を後にした。

   



   



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