蒼き月の調べ


波瀾編

第2章



 5月の連休が終わり、初夏の気配が漂い始めた頃、空音は意外な人物の来訪を告げられた。彼にとってみれば帰省というのかもしれないが、空音が海棠家でお世話になってからは初めてのことだ。 峰子も柊弥もおらず、不思議に思いつつその人物が待っている居間へと足を運んだ。
「ご無沙汰しております、尚弥さん」
 丁寧に挨拶をすると、彼はソファにどしりと腰をおろしたまま軽い口調でどーも、と返す。
「今日はどうされたんですか?」
「まー、座んなよ」
 そう言うと、近くに控えていた使用人にも下がるように伝える。
 部屋に二人残され、空音は妙な違和感を覚える。以前、新年のパーティで顔を合わせたときとは違う。
 改めて尚弥の顔をまじまじと見つめる。
 柊弥と同じように整った面立ちをしているが、雰囲気はあまり似ていない。そもそも目の前の彼のように茶色がかった髪にアクセサリーをつけ、カジュアルな服装、というのは柊弥にはありえないことだ。柊弥は休日でもでもスーツか、またそれに近い格好をしていることが多い。
「どうやって兄貴を落とした?」
 空音は首をかしげた。
「これでも俺、忙しいんだよね。だから世間話をしにきたわけじゃない。――兄貴に近づいた本当の理由はなんだ?」
「あの……」
 尚弥の言葉の意味も意図するものもよくわからず、空音はぽかんとする。
「堅物の兄貴を落とすとはどんな女なんだろうとは思っていたが……そりゃあ若い女子高生ならいかようにも楽しめそうだけどさ、なーんか腑に落ちないんだよな」
 尚弥は目の前のコーヒーを一口含むと更に言葉を続けた。
「だいたいさ、あんたと婚約したって兄貴に良いことなんかなにひとつない。身寄りのない少女との純愛とは笑わせる。そりゃあ世の中はシンデレラが好きだからさ、イメージは良くなるだろうよ。けどさ、兄貴と結婚するってどういうことかわかってんの?あのばーさんまで丸めこむとは一体あんたは何を持ってるわけ?目的はなんだ?俺はあんたが何を考えてんのかさっぱりわからない」
 空音は身動きひとつせず、尚弥の言葉に耳を傾けているだけだ。返事を待っているらしい尚弥に空音はなにをどう言葉にすればいいのかわからない。尚弥が空音をよく思ってはいないのだろうということだけは感じる。時間だけが無駄にすぎ、尚弥は苛立ちを含みながら口を開いた。
「何か言いたいことはないのかよ」
 それでも空音は何も言えない。目の前にいる人物はなんとなく怒っているようだが、その理由もはっきりしない。
「俺さー、下心のない女なんか絶対いるはずないと思ってんだよね。そろそろ純情ぶるのやめたら?」
「――尚弥さんはこの家がお嫌いなんですか?」
「……はぁ?」
 やっと口を開いた空音の第一声に尚弥は素っ頓狂な声をあげた。空音にしてみれば、尚弥に会うことがあったらどうしても聞いてみたいと思っていたことだった。言いたいことは、と聞かれて咄嗟に思い出したのだ。
「峰子さんや柊弥さんはもちろん、この家にいらっしゃる方は尚弥さんのご帰宅をとてもお待ちしているんです。だから仕事がお忙しいとは思うんですけど、また帰ってきてくださいね」
 にっこり笑って言うと、尚弥は眉間に皺を寄せる。
「あのさ……あんた俺の話全然聞いてねえだろ」
「聞いてますよ?」
 しかしそんな空音の態度は尚弥を更に苛立たせているようだった。
 柊弥も最近こそゆっくり丁寧に話をしてくれるが最初の頃は無愛想で言葉数も少なかった。空音は出会った頃の柊弥を思い出しながら、やはり兄弟なのだとしみじみ感じ、親近感を覚えた。
「なあ……」
「はい」
「あんたって兄貴のどこが好きなの?」
 唐突に聞かれ、空音は首をかしげた。どこが、と問われても一言でこれ、と答えることはできない。柊弥の何かが好きというわけではなく、柊弥に対する気持ちをあれやこれやと考えていると、好きという言葉に辿りつくのだ。空音が考えこんでいると、尚弥は言葉を変えた。
「本気で好きってこと?」
「はい」
 空音が迷わず即答すると、尚弥はじゃあさ、とこれまで見せなかった真剣な表情を空音に向けた。
「兄貴と別れてもらいたいんだけど」


   



   



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