蒼き月の調べ


波瀾編

第2章



 ――叔母さん。
 空音は頭の中で呟く。自分にまだ血の繋がる親族がいたことに驚きながらも、もしかして子どもの頃に会ったことがあるのだろうか、と父に繋がるなにかを思い出そうとしてみる。しかしすぐに尚弥の言った言葉に打ち消される。
 尚弥は空音に柊弥と別れてほしいと告げた。
 実のところ今更自分と血の繋がる親族のことはあまり気にしてはいなかった。気にならないといえば嘘になるが、父親のことはおぼろげにしか覚えておらず、その後全く関わりはなかった。確かに一時期無性に父親がどんな人間か会ってみたいと思ったこともあったが、おそらくそれは空音と同じような境遇におかれていれば一度は思うことではないだろうか。ゆえに、叔母と名乗った女性のことも特に会いたいというわけではない。
 柊弥は仕事が忙しいようで、海棠家に立ち寄ることもなく電話でもまともな会話はできていない。一度和義が顔を見せてくれ、柊弥の様子を教えてもらっただけだ。残念に思いつつも、どこかホッとするようなところもあり、会えばどう話せばいいのか、どうすればいいのか空音自身悶々としながら時間ばかりが過ぎた。

 数日後。
 学校生活に音楽のレッスンにと忙しく過ごしていると空音は放課後職員室に呼び出された。
 村上静子という女性が空音を訪ねてきたという。
「君の実の父親の戸籍謄本もお持ちで、ご本人はその妹だということだ。身元の確認はできてはいるようなので、応接室にお通ししている」
 担任は淡々と告げると、空音を問うように見上げた。
 一瞬、何が起こったのかわからず立ちすくんでいた空音だったが、戸籍謄本、という言葉がずしりと心に響いた。
 こちらから連絡しなければ会うことはないだろうと、考えていたため空音は自分の身体が強張るのを感じた。これまでにない緊張感が走る。好奇心というよりは不安の方が大きかった。けれども目の前の担任は空音の不安など気にもとめず、さらりと告げた。
「話が終われば事務局の方に一言声をかけてくれればいいから」
「はい」
 以前担任だった須山とは違い、あまりにもそっけない口調が、このときの空音には少し冷たいものに感じられた。彼にしてみれば単に自分の役目をこなしたにすぎないのだが。
 職員室を出て、重い足取りで応接室へと向かった。部屋の前で立ち止まると、ノックしようとした手が震えた。一度大きく深呼吸したところで、扉が勝手に開く。
「あ」
 驚いて空音が顔を上げると、時々みかける学校の事務局の女性だ。
「杉山さん?今お茶をお出ししたから。ごゆっくりどうぞ」
 彼女はにこやかに微笑むと扉をそのままに、空音を部屋の中へと促した。
 空音の目に飛び込んできたのはふくよかなゆったりとした女性だ。見た目とは正反対に鋭い眼光が妙に空音の心を高鳴らせた。
「空音、ちゃん?」
 親しげにそう声をかけられ、空音ははい、と頷いた。全く見覚えのない顔だった。
「村上静子です。村上康志の妹で、空音ちゃんには叔母にあたるのよ。会えてとてもうれしいわ」
 村上、とはかつて空音が数年だけ名乗っていた苗字だ。といってもあまりにも遠い過去のことでそんな自分すらあまり覚えていない。
 空音が向かいの椅子に腰をおろしたところで再びじっと見つめられる。
「ずっとね、探していたのよ」
「どうして、ですか?」
 面識のない姪をどうして探す必要があるのか、空音にはわからない。父親ならばまだわかるが、なぜこのタイミングでこの女性が現れるのか。疑いたくはないが、尚弥の言葉が脳裏をかけた。
「空音ちゃんにとってみれば自分を捨てた父親ですものね。ごめんなさいね。あなたが身内のすべてを失ったと聞いて、どうしても話しておきたいと思って」
 いやだ、と思った。
 なぜだがわからないが、あまりこの空間に長くいたくない、と本能的に何かが拒否している。唐突に、逃げ出したいような衝動に駆られ、空音自身が一番驚いた。
「兄は…、あなたの父親は今闘病生活中でね。もう長くは生きられないの」
「病気、なんですか?」
「ええ、それを知って、自分が過去に犯してしまったことを自覚でもしたのかしら。彼は何も語らないけれど、空音ちゃんに会いたいと思っているみたいなの」
「どうして……」
「あら、だってあなたの写真を今も大事に持っているからよ。空音ちゃんにも思うことはたくさんあるでしょう。だから強くは言えないのだけど、もしも最期に会ってくれるというのならぜひ連絡をしてほしいの」
 物腰は柔らかく、彼女真剣な表情が嘘をついているようには見えなかった。にもかかわらず空音はどこか気分の悪さを抱えていた。
「あの、すぐにはお返事できません」
「そうね、わかっているわ。私はただ兄の現状を伝えたかっただけなの。これからどうするかは空音ちゃんが決めることだわ。お節介なことをしてごめんなさいね」
 俯いたままの空音に、静子は近況などを少し告げ、学校を後にした。
 両親の離婚の原因は父親の暴力だった。その父親が病に倒れ、長くは生きられないという。家族をすべて失ってしまった空音の、血のつながりのある父親までもがこの世を去ろうとしている。その父親が空音のことを気にしてくれている。
 空音は事務局の窓口から、お礼を告げると、そのまま校舎を出た。
 天を仰ぐとどこまでもつながる蒼穹。
 風に乗って管楽器の音が流れてくる。音楽科の管楽器を専攻している生徒たちが外で練習をしているのか、それとも吹奏楽部が練習に励んでいるのか、どちらにせよ心地よい音の世界だ。
 少し歩いたところで、車通学の生徒たちが利用できるロータリーに出た。海棠家の車が目に入り、空音はゆっくりと歩み寄った。すぐさま中から春子が出てきて、後部座席の扉を開けてくれた。
「少々お戻りが遅かったようですね」
「はい、ごめんなさい」
「なにかございましたか?」
 今日のことを話すべきか、一瞬迷った。空音のボディガードといえど、彼らはそれだけを仕事としているわけではない。空音の状況を逐一柊弥に報告していることはこれまで一緒に過ごす中で学んでいる。
 空音が黙っていれば、そして空音が父親になど会うことを望まなければ、今日この日のことはなかったのことになるだろう。
「叔母様とお会いしました」
 それでも正直に告げた。
 嘘をついたところで柊弥には通用しないことも、空音は学んでいる。


   



   



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