蒼き月の調べ


第3章



「どういうことかしら」
 海棠家の屋敷では珍しく峰子が怒りを露わにしていた。昨日柊弥のスキャンダルの書かれた雑誌を見せられ、そこに空音の関わりが取り立たされていることがわかると、すぐに予定をキャンセルし、帰国の途についた。帰ってきてみると、柊弥はすでに会見をし、雑誌の内容の釈明とともに、空音との婚約発表をおこなったという―――寝耳に水である。
 そして屋敷に戻ってきてみれば柊弥が空音をホテルに移動させたはいいものの、空音自身が勝手に抜け出し、現在は行方不明とのことだった。自分の不在の間にあれもこれもとよくもこれだけのことが起きてくれたものだと、思いながらも、峰子は空音のことが気がかりでならない。
「それで、空音さんはまだ見つからないの?」
「柊弥様が必至でお探しになっておられるようです」
「それはそうでしょう」
 孫の柊弥が空音に対しどこか特別な感情を抱いているのは誰が見ても明らかだった。それを本人が自覚しているかどうかは別として、その思いが固く閉ざした柊弥の心を少しでも和らげてくれるならば、それもまた縁というべきものなのかもしれない、と峰子は感じていた。
 けれど―――。
 物事というものにはいつでも予想外のことが起きるものだ。
 海棠家には問題が山積している。それでも空音を海棠家に引き取ってしまったのは個人的な感情の方が大きい、と峰子は思っている。
 空音の後見人になってほしいと頼み込んできた人物はもうこの世にはいない。峰子よりも少しばかり若い彼女は大切に育てた孫娘を置いて旅立ってしまった。個人的には断る理由などなにひとつなかった。けれど、峰子の背後には海棠家という大きな存在が控えていて、それは死んでからもなおつきまとうことだろう。それを路緒が知らないはずはなかった。知っていてなお空音を預けようと思ったのであれば、これくらいのことは承知の上だったのかもしれない。

「峰子様、空音様は正臣氏の元に連れて行かれたようだと、今連絡がございました。柊弥様も向かっておられると」
「正臣さんの?なぜ――」
 と言いかけて峰子は苦渋の表情を浮かべる。
 正臣は柊弥を憎んでいる。そして海棠家のすべてを。
 この件に彼が関わってているとすれば、それはすべて峰子のせいだ。大反対をされながらも正臣を海棠家に引き入れたのは他ならぬ峰子だったのだから。
「私も参ります。すぐに準備をしてちょうだい」
「かしこまりました」
 16歳で海棠家に嫁いできた峰子の人生は決して順風満帆とは言えなかった。夫となった純一郎にもともと愛人がおり、子どもまでいるという事実を知らされたのは結婚してまもなくのことだった。けれども、純一郎はそのことに関して触れることはなく、若くして嫁いできた峰子にそれは優しく接してくれた。世話をしてくれる使用人たちの噂では純一郎は結婚後その愛人とは一切縁を切っているようだと言い、それは大切にされていた峰子自身も感じていることではあった。実際、純一郎はそれなりの養育費を一括で渡し、縁を切っていたことを後で知ることになった。その後、峰子もふたりの子宝に恵まれ、後継ぎとすべく男児ももうけ、純一郎は真実幸せそうに見えた。しかし、峰子はふと考えずにはいられなかった。本来家柄などという問題がなければ妻となっていた女性と、海棠家を継ぐはずだった男児の存在を。
 そしてあるとき、峰子は知ったのだ。母を失い施設に入所することになった正臣の存在を。そのとき初めて、峰子は純一郎に正臣を海棠家に引き取りたい、と告げた。純一郎は峰子が正臣の存在を知っていることにただただ驚いていた。そして一言、それはできない、と言い放ったのだ。あの時、峰子は最後まで折れなかった。最終的に正臣は条件付で海棠家に迎え入れることになった。―――あれが間違いだったとは思いたくなかった。
 同じ純一郎の息子して生まれたのに、一方は何不自由ない生活をし、約束された未来を歩むことができるのに、一方は施設に入り、進みたい道を歩むことも困難な状況にいる――それがどうしても峰子には憐れに感じてしまったのだ。
 けれども正臣は憐れみなどかけられたくなかっただろう。と今では思う。
 純一郎はすべてわかっていたのだ。
 後に、純一郎はあの親子がどんな状況になっても一生食べていくに困らないだけのものを与えていたことを知った。それと引き換えに今後海棠家と一切関わらないことを条件に。相手の女性がどんな思いでその条件を飲んだのかは今となってはわからない。純一郎は大切なものを守るために、そういう手段をとっていたのだ。純一郎は非情な選択をしたともいえるのだろう。それでもその気持ちだけは今の峰子には痛いほど理解できてしまうのだ。
「私は甘すぎたのでしょうか」
「峰子様」
「わかっています。これは私が蒔いた種。私がけじめをつけなければならないのです」
 そこにあるのは一族の誰からも恐れられる”海棠峰子”の顔だった。


   




   



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