蒼き月の調べ


第3章

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「あの、どこへいくんですか?」
 暗闇と言えど、学校から海棠家の屋敷はそれほど遠くはない。ホテルに向かっているようでもなかった。見知らぬ夜景の中を通り過ぎていくのを見て、空音は不安げに運転席の女性に尋ねる。
「ご存知ないのですか?海棠家のお屋敷はたくさんございます」
 そう答えられてしまうと、空音は何も言うことはできない。ただ連れて行かれるところへ黙ってついていくことしかできない。
 言われるがままに見知らぬ屋敷に迎え入れられ、その一室へと促された。広い部屋には豪奢な家具と価値のある置物がいくつも飾られてある。ソファにどしりと腰掛けた初老の男はにやりと口元を緩めた。どこか不気味さを感じながら目の前の男をじっと見据えていると、自分を連れてきた女性秘書は部屋を出て行ってしまった。これでこの部屋に残されたのは空音と目の前の男だけだ。
「やはり美しい娘だな。柊弥がどの女にも靡かぬわけだ」
「あの…あなたは…?」
「海棠正臣という。柊弥の伯父になる」
「伯父様…柊弥さんの伯父様がなぜわたしを?柊弥さんに頼まれたのですか?」
「君が随分と柊弥と親しいと聞いてな。一度会ってみたいと思っただけだ」
 空音は困惑した。ただそれだけのためにこの場所へ呼ばれたというのだろうか。柊弥は知っているのだろうか。
 空音はなぜこの場所へいるのかよくわからないでいた。自分は婚約の話を聞かされホテルを飛び出したはずだったのだ。
 確かに空音がお世話になっている海棠家は親族も多く、柊弥に伯父がいてもなんらおかしくはない。ただその話を空音が聞いたことは一度もなく、海棠正臣という名前も初めて聞いた。
「お前は一体どういうつもりで柊弥の傍にいるのだ」
 どういうつもり、と言われても空音はどう答えていいかわからない。そもそもこの質問の意味もよくわからない。空音が声を出せないでいると目の前の人物は不適な笑みを浮かべている。
「柊弥はお前を婚約者だと言ったが、それは事実なのか?お前には身内はおらぬようだが、その身を使って柊弥に取り入ったか。若くて美しいとは得するものだな」
 舐めるように見つめてくる視線にどこか恐怖を感じ、空音はその場を逃げ出したくなった。けれども身体は硬直したように動かない。
「しかし、あの柊弥が女を喜ばせられるとは思わんが、どうだ?物足りなければ私のところへ来てみないか。若さでは負けるが、柊弥よりは楽しませてやれるぞ」
 空音には一体何の話をしているのか、正臣が何を言いたいのか理解できずただただ困惑した。それでも何かを話さなければ、と思い口を開く。
「……柊弥さんはわたしの進路の相談にのってくれているだけです」
 事実のままにそう告げると、正臣の眉がぴくりと動く。
「進路?」
「音大に行くための・・・」
「ほう、では深い関係は全くないというのか」
 正臣は興味深そうに空音を眺めた。信じられない、という顔だ。
 深い関係、というのが何を表すのか、やはり空音にはよくわからず、どう答えてよいかわからない。
「柊弥がどういう人物が知っているか」
「お仕事をたくさん抱えていてとてもお忙しい方だと」
「そう、あいつは様々な新規事業を立ち上げ、代々海棠家が引き継いできた事業をことごとく潰している」
「え?」
「亡き父より引き継いだ私の会社も潰そうとしている。私の会社だけではない。そうやってあいつは無駄だと判断したものは容赦なく排除していくのだ。たとえそれが自分の伯父の会社であってもな。そういう非道な男だ」
 ふいに空音には柊弥の冷たい視線が蘇った。しかしながら、目の前にいる男の言葉がすべて真実だとも思えなかった。
「わたしには仕事のことはわかりません」
 そう言うと、正臣は立ち上がりゆっくりと空音に近寄ってきた。大きなごつごつとした手のひらが空音の頬に触れる。ひんやりと感じられて、思わず一歩後ずさる。
「柊弥はお前が役に立たないと判断すればあっさりとお前を捨てるだろう。――私のもとへこないか?資金援助などいくらでもしてやろう。欲しいものを与え、やりたいことを自由にすればよい。妻や他の女たちもそうしているのだからな。どうだ?」
 空音はぼんやりとその言葉を聞いていた。どんなに魅力的に聞こえるだろう言葉も空音の心には入ってはこない。
「愛人は嫌か?」
「あいじん?」
「そう呼ばれるのが嫌か?まあ妻と言っても紙切れ一枚の関係でしかないから気にせずともよい。あの女にも若い男の愛人がいくらでもいる」
 空音は無意識のうちに憂いのようなどこか憐れみのこもった目で正臣を見上げた。
 正臣はその双眸を見た瞬間、何かが頭をよぎったのか、不快感露わに空音の頬をおもいっきりぶった。激しい音とともに、勢いで空音の細い身体はよろめいて、そのまま絨毯の上に倒れこんだ。
「その目で私を見るな!!」
 怒号を空音はどこか夢の中で聞いた。目の前が真っ白になっていくような気がした。何もかもが目の前から失われていく中で、自分の名前を呼ぶ声が微かに聞こえた。


   




   



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