蒼き月の調べ


第3章



 空音は座りこんだまま微動だにしない。そんな様子を見かねてか、担任の須山はお茶を目の前に差し出した。
「大丈夫か?」
 こくんと小さく頷いて、また空音は下を向いた。
 柊弥にホテルから一歩も出るなときつく言われていたにも関わらず、気づいたらホテルを飛び出していた。最初は学校に行くつもりで、電車に乗ったが、もしも騒ぎになって学校側に迷惑をかけることになってはいけないと、思い、途中で行き先を変更し、祖母と暮らした家に向かった。家は空音が出たときのままだったが、鍵を持っていないことに気づいて中に入ることはできなかった。とぼとぼと歩いているとすでにあたりは暗くなっており、行くあてもなく歩いているところを警察に補導され、何も話そうとしない空音の姿が月ヶ原学園の制服であることに気づいた警察官が学校に連絡をいれ、担任の須山に迎えに来てもらったのだ。
 結局のところ、空音の親代わりとなっている峰子の元に連絡が行くことになるのだろうが、その峰子は現在海外に行っている。そうなれば自然と柊弥がくるのだろう。
 けれども、空音はどうしても柊弥には会いたくなかった。
「会社の方に連絡をしたら、秘書の人がすぐに迎えに来るそうだ」
 それを聞いて空音は少しだけホッとした。
 秘書の和義に迎えにきてもらえないかと、小さな望みをかけて会社の方に連絡をしてもらったのだ。あまりにも自分勝手すぎるわがままに、いつも優しい和義もあきれ果ててしまうかもしれない、そんな風に考えながらも、空音の脳裏にはあの冷たい表情をした柊弥の顔が張り付いたまま消えなかった。
 なぜ、婚約という大事なことをあんな風に簡単に口にしてしまえるのか、空音には全く理解ができなかったのだ。しかも彼は、騒動がおさまれば婚約など簡単に解消できる、とまで言ったのだ。まるで”婚約”や”結婚”というものが、なにかの手段のひとつのようなそんな言い方だった。
 これまで誰かが言うように柊弥が怖いと思ったことは一度もなかったが、初めてその冷酷さに触れたような気がしてどこか近寄り難さを感じたのだった。

 まもなくして須山の元を訪ね、空音を迎えにきたのは、和義ではなく見たこともない若い女性だった。彼女は高田栄子と名乗り、柊弥の第二秘書だと言った。空音自身は栄子に会ったことはなかったが、名刺を見れば確かに柊弥の秘書で、和義から頼まれたのだと言う。その和義から以前、柊弥のスケジュール管理をしている女性秘書もいる、と聞いたことを思い出した空音はそのまま栄子と共に海棠家の屋敷に戻ることになった。
「うちの学校はいつでも杉山のような状況になりそうな生徒が山ほどいるから、学校側もそれなりにちゃんとしてるし、心配せずに来られるようになったら来いよ」
 須山はそれまでなにも語らなかったが、あらかた事情を知っている風に言った。空音はそれに頭をさげて、ありがとうございます、と小さく答えた。
 そういえば空音とはほとんど関係がなかったが、月ヶ原学園には芸能コースというクラスもあり、芸能人の子どもや、実際に芸能活動をしている生徒が通っている。その他専門科のクラスでも才能の秀でた生徒はいろんな分野で活躍をしそれなりに雑誌やテレビの取材をされていたりもする。しかしながら学校側の対応はマニュアル化してあるのか、そういった状況にも冷静に対応している。それを思い出し、須山の言うことは嘘ではないのだろうと、どこか安心した。
 それならば、近いうちに学校へは行けそうな気がした。
「先生、本当にありがとうございました」
 もう一度空音は須山にそう告げると、栄子の運転してきた車に乗り込んだ。
 いつも迷惑をかけてばかりだ、と空音は思う。自分が未成年でまだ子どもだから、いつでも与えられて守ってもらうばかりなのだと。
 栄子は無言で、車を発進させる。
 すでに闇夜の道路を静かに走り抜けていくのだった。 

   




   



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