蒼き月の調べ


第1章



 柊弥は隣のテーブルに座る男女二人に注文をとりにきた端麗な笑顔の少女にめずらしく双眸を見開いて凝視した。これまで運命やら奇跡などという非現実的なことを信じたことはない。だが、これは偶然と呼ぶにはあまりにもできすぎていた。
 杉山空音、その名前とともにあの日見た光景がもう一度鮮明に脳裏をかけめぐる。
 あの日、柊弥は友人の結婚式に出席していた。柊弥の立場からすればよくある予定のうちのひとつで、いつもとたいして変わらない順序で進められるその聖なる儀式は、確かに喜ばしいものではあるが、義理で出席、つまりは仕事の一部のようなものだ。
 いつもなら披露宴が終わった時点でさっさと席を立つのに、とっさに彼女の姿を目で追った。そしてさらに信じられないことに、その日入っていた予定をキャンセルし二次会にまで顔を出してしまったのである。
 結局お目当ての彼女には会うことはかなわず、自分の愚かな行動を悔いただけだったが。
 調べれば難なく手に入れられるはずの一人の情報を、敢えて得ようと思わなかったのは、しょうもない矜持だったのかもしれない。女一人に心を乱されることなど、これまでに一度もなかった。これからもそうであらなければならないのだと。しかし、秀麗な横顔の少女は柊弥の記憶から消し去ることはできなかった。
 空音はあの日とはどこか違う緩やかな笑みを浮かべてメニューひとつひとつを丁寧に説明している。隣にはこのレストランでよく見るスタッフのひとりが付き添っている。研修中だろう。ただ研修とは思えない堂々とした振る舞いと優美な声がまた柊弥の心を捉え、いつまでもその声に酔いしれたい気分になる。
 午前中にこの海棠グループの所有するホテルで会議を行い、その後部屋にルームサービスをと勧めた和義に、従業員の視察もかねてレストランで食事をしよう、と言ったのは柊弥自身だった。
なぜ、と言われるまでもなく柊弥はいつもそうしてきた。副社長という名だけの立場ではなく、その目でしっかり従業員を把握しておかなければならない。
 それは尊敬する亡き祖父の教えでもあった。
 柊弥はすぐに責任者を呼び寄せ、少女のことを尋ねる。突然の呼び立てになにか粗相でもあったのか、料理が気に入らなかったのか、と不安そうにやってきた彼はなぜそのようなことを尋ねられるのか困惑しながらも、空音が学校の職業体験で学んでいることを伝えた。それを聞い柊弥はすぐに空音を自分の元へ呼ぶように告げると、空音は急ぐでもなくゆっくりと歩いて近寄ってきた。確かに胸元のバッチには『職業体験中』と書かれてある。
「君は高校生だとか」
 柊弥がそう声をかけると、空音は真っ直ぐな視線を向けた。少し異国の血でも混じっているのか自然な栗色の髪と明るい紺色の瞳が際立っていた。
 ―――高校生だったとは。
 それはどこか落胆ともいえるような複雑な心のつぶやきであった。
「夏休みの間だけ、職業体験の一環で勉強させていただいております。至らない面がございましたら申し訳ありません」
 高校生である若い少女が目の前の人物がこのホテルのオーナーだと知っていて、このように落ち着いて応対できることに柊弥は少しばかり感心した。
 ホテルメロディアーナでは特定の学校の生徒だけを職業体験で受け入れているが、その学生も学校からの推薦を受け、ホテルでの厳しい面接をクリアし、なおかつ研修を受けなければ客の前までは出ることはできない。
「ここでの勤務はどうだろう」
「みなさんによくしていただいております」
「なにか意見があれば教えてほしい」
 空音は少し首をかしげ、思いついたようににこりと笑う。
「……オーナーは笑顔の方が素敵だと思います」
 その瞬間、柊弥の片方の眉がつり上がり、一瞬にして周囲の空気が凍りついた。
 向かいに座った柊弥の秘書である宮田和義は、珍しげにその様子を観察していた。
「私もそう思います」
 柊弥は小さくクスリと笑ってそう言う和義を一瞥すると小さくため息をついた。
「善処しよう」
 柊弥の心は複雑だった。空音の声をもう少し聞いていたいと思ったばかりにくだらない質問をしてしまったと思ったが、まさに予想外の返事が返ってきたのだから。
 当の空音は先ほどとかわりない純粋な笑みを浮かべている。
 柊弥は空音を下がらせ、料理をきれいに平らげた。
 ハラハラしながら様子を伺っていた支配人とスタッフたちに「ご苦労」と声をかけると颯爽とホテルを後にし、用意されていた黒塗りの高級車に乗り込んだ。

 支配人はその不機嫌さから後で必ず処分がくだるであろうことを覚悟したが、柊弥の秘書からにわかに信じがたいことを聞かされた。
「今日のオーナーはとてもご機嫌な様子でしたよ」
 支配人は耳を疑った。彼には冷然とした表情のオーナーしか目に入らなかった。機嫌がよかったとはお世辞にも言えないほどに。
「本当です。気分を害されればあのようにお声をかけられることはまずありませんし、何かあればその場で処分をくだされる方ですから」
 秘書はそう告げると柊弥の後をすばやく追いかけた。

「和義、今回受け入れている学生の名簿を出せ」
 柊弥は車が動き始めるとすぐに和義に指示をだす。
「名簿ですか?そう言えば先ほどの学生は勇気があったなぁ。あなたが誰か知っているでしょうに」
 柊弥の様子を伺うように話す和義に、さっさと言われたことをやれと言わんばかりの視線を向ける。
「ハイハイ、名簿ですね。すぐにデータを出せばいいんでしょ」
 和義はタブレット型端末を取り出すと、名簿の一覧を開いた。
「これでいいですか?」
「ああ」
 そこには間違いなく杉山空音の名前が書かれてある。
 『月ヶ原学園調理科2年 杉山空音』
「へえ、月ヶ原学園なんですね。さすがそこらの女子高生とは違いますね」
 和義はその学校名に興味を持ったが、柊弥は別の文字から目が離せなかった。
 ―――調理科?
 柊弥が空音を初めて見たのは結婚式でピアノを弾く優雅な姿だ。その堂々たる容姿に囚われただけではない。あの時のプロにも引けをとらない流麗な演奏に惹かれた。
 ―――なぜ調理科なのか。

   






   



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