蒼き月の調べ





 翌日、柊弥は空音を最上階のオーナーズルームの一室に呼び出した。いきなり支配人から声がかかり、そのままわけもわからずやってきたのであろう、少しだけ緊張気味に空音は入ってきた。しかしその立ち振る舞いはどこで学んだのか一貫して優美だ。

「突然呼び出してすまない」
 柊弥がそう声をかけると、空音はいえ、と小さく答えた。
「いきなりで申し訳ないがピアノを弾いてみてくれないか?」
「ピアノ?」
 空音のその明眸は俄かに、柊弥の横にある明らかにその辺のものとは違う高級なグランドピアノに向けられた。
「このピアノ…ですか」
「ああ」
 空音はじーっと目の前にあるピアノを見つめた。
 無言の間が流れ、柊弥は不審に感じて空音の様子を伺っていた。
 ―――なんだ、この間は。
「あの…わたしはプロでもなんでもありません」
 やっと口を開いたかと思えば、空音はまっすぐに柊弥を見つめそう言った。
「昨年の秋ごろ、結婚式で弾いているのを見たが」
「結婚式?」
 空音はきょとんとしてしばらく何かを思い出すようにあらぬほうを向いた。柊弥がじっと見据えていると、ああ、と思い出したように空音の表情が明るくなる。
「麻衣ちゃんの結婚式で、はい、弾きました―――けど、なぜですか?」
 柊弥の威圧などまったく通用していないのか、空音は尚も不思議そうに尋ねる。
「もう一度聞きたいと思っただけだ」
 理由を聞かねば弾く気のなさそうな空音に、柊弥は正直に答えた。すると、空音はピアノに近づいて確認するように柊弥を見上げた。柊弥は静かに頷くと、空音は椅子に腰を下ろす。
「曲はなんでもいいですか?」
「ああ、かまわない」
 空音はその場所に漂う研ぎ澄まされた空気をかきけすように鍵盤に触れた。その表情は一瞬で別人のように変化する。それは間違いなくあの日柊弥がとらえられた秀麗な横顔だった。
 まるで水面のように繊細に反応する空気に柊弥は一瞬で引き込まれた。 ―――そうだ、この感覚だ。
 プロのピアニストの演奏なら何度も聞いてきた。その柊弥を引き込むほどの腕をこの少女は持っている。
 上手い、というレベルではなかった。テクニックでいえばプロにはもちろん劣るであろうと思われたが、そんなものは練習すれば身につくものである。空音はそんなものすべてを超越した何かを持っている。
 一曲弾き終えた、空音ははーっと思いっきり息を吐く。
「今のはなんという曲だ?」
 有名な楽曲なら柊弥は知っているはずだが、それは自分の知るものではなかった。
「『Der Blaue Mond』、蒼き月の調べ、とわたしは呼んでます」
「作曲は?」
「わかりません。おそらく祖父だと思いますが」
「祖父?」
「はい。もう亡くなっているので…」
「そうか」
 柊弥はそれ以上は聞かなかった。祖父は作曲家かなにかか、とりあえず音楽に関わる人間ではあったのだろうと思われた。しかし、初対面にも近いこの場でそこまで深い話まではできない。
「ほかには弾けるか?」
「…童謡ならなんでも弾けます」
 にっとこり微笑んで応える空音に、童謡、とぽつりと口にした柊弥は眉間に皺を寄せる。
「君はどこでピアノを習ったんだ?」
「えーっと学校で音楽の先生に少し教えてもらいました」
「それだけか?」
「家ではオルガンを弾いています」
 それを聞いて柊弥は正直驚いた。専門的な指導も受けず、ここまで弾けるものなのか。
「高校では調理科と聞いたが、音楽の方面に興味はないのか?」
 空音はぽかんとして柊弥を見上げた。なぜそのようなことを聞かれているのかわからないといった風だが、柊弥は怪訝な顔をする。そんなに変なことを聞いたのだろうか。
「高校卒業後に進学の予定は?」
 今度は質問を変えてみると、空音はないです、と一言返してきた。
「ピアノを本格的に学びたいとは思ったことはないのか?」
「ないです」
 やはりさらりと言い切る空音に柊弥は呆れを通り越した。あれほどの才能を持ちえながら、いや、自分の才能に気づいていないだけなのか、あまりに自分の腕に頓着がない。
「時々、ピアノの演奏を聞かせてほしいのだが」
「それは、かまいませんけど」
 どこか乗り気ではなさそうな空音に強引に約束をとりつけ、それからは柊弥がホテルを訪れる度に空音はレストランでの体験を中断して柊弥のためにピアノを演奏することになった。


   




   



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