緑の道









新しい土地で、高校に通い、新しい友達ができる。
母との二人暮らしはもちろん大変ではあったけれど、父と一緒に暮らしていた頃に比べれば随分と気持ちは楽だった。

「紫乃ってばどうしてそんなに英語得意なのー?」
友人たちにいつも羨ましがられる。
私は相変わらず英語が得意だった。
全国模試の結果、英語はいつも全国1位。100点しか取ったことがないのでそれは変わることはない。
先生たちからは進学をすすめられたけど、私には最初から進学をする気はなかった。家庭の事情かと問われれば、きっかけではあると思う。
けれど、私はもう勉強はどうでもよかった。
勉強よりも何よりも、私は早く働いてお金が欲しかった。
自分だけの自由になるお金で、牧師様に会いに行きたかった。
もう、戻ることのない時間をいつも夢に見る。
私とアレンが笑いながら野原を駆け抜け、それを静かに見守る牧師様と祖母の姿を、私は何度望んだことだろう。
牧師様に会いに行ったところで、アレンに会うこともないし、あの幸福だった時間が戻ってくることはない。
それでも私はあの場所へ還りたかった。


「ねえ、門のところに金髪の男の子が立ってるよ」
ある日の下校時、何人かの女の子たちがきゃーきゃーと騒いでいた。
外人のかっこいい男の子が門のところにいるらしい。
「ねえ、紫乃話し掛けてよ」
英語がペラペラなのを知っている友人たちが寄ってきた。
そんな見ず知らずの外人に話し掛けるために英語がしゃべれるわけではないのだけれど、と思いつつ背中を強引に押されてしまっては断ることはできない。

「あ」

そこには、もう二度と会うことはないと思っていた金髪の少年が立っていた。

「シノ?」
「アレン、どうしてここに」

アレンは私の知っている小さな男の子ではなかった。
背は私よりも随分と高く、同じ位置に会ったはずの目線はかなり高いところにある。
けれど笑ったときの顔はあの頃のまま。
それは思わぬ突然の再会だった。
友人たちが騒ぐ中、知り合いだから、となんとか振り切ってアレンを連れて賑やかな輪の中から抜け出した。
翌朝質問攻めにされるのは間違いないと覚悟を決めながら。


川沿いの道を二人並んで歩く。
「シノ、久しぶりだね。すごくキレイになってるから驚いた」
さすが生粋のアメリカ人。相変わらず口が上手い。
「アレンも、背が伸びて随分と男っぽくなったね」
「そりゃあ、あの頃のままではいられないよ」
「そうよね」
その言葉が重たくのしかかる。
「よく場所がわかったね」
「うん。住所、おじいちゃんに渡してたろ?」
そうだった。
牧師様には高校へ入ってから一度手紙を書いた。その時、高校名ももしかしたら書いていたかもしれない。
「シノ」
「ん?」

「おじいちゃんがね、死んだんだ」


ずしんと、重石のような衝撃が心に走った。




   *   *   *




母に事情を話すと、交通費を出してくれた。
その日のうちに私はアレンと共に、あの場所へ向かった。
既に葬儀もすんだ後で、そんなに急ぐ必要もなかったけれど、私はすぐにでもあの場所へ還りたかった。
新幹線に乗ってみればあっという間だった。
辺りはもう暗くなりかけていたけれど、私は懐かしい道をゆっくりと踏みしめながら進んだ。
アレンも私も一言も話さなかった。
幼い頃のように手をつないでただ歩く。
この街へこんな形で帰ってくるとは夢にも思っていなかった。


教会は、最後に見たときと全く変わらなかった。
変わらないのに、どこか哀しげに見えるのは、ここの主人が亡くなったからに違いない。

「ここだよ」

闇の中で教会の灯りがかすかに照らす教会の裏のこの場所にはいくつかの墓標が並んでいる。
戦時中、投獄され亡くなったキリスト教徒たちの墓標だと、いつだか聞いたことがあった。
その中のひとつに牧師様は眠っている。
私は花を供えて静かに手を合わせた。

「実はここには半分しか眠っていないんだ」
「え?」
「もう半分は故郷に、と思って」
「あ・・・」
そうか。
牧師様の生まれ故郷はアメリカだ。
「半分だけで・・・良かったの?」
「うん。此処はおじいちゃんが愛した場所だからね」

愛した場所。
それは私も同じ。
此処は、唯一私の愛する故郷。

「風邪をひく。中へ入ろう」
「うん」


教会の牧師様の部屋に戻るとアレンは慣れた手つきで紅茶を入れてくれた。
「泣くかと思った」
「うん。私も」
答えながら、私は自分が妙に落ち着いていることに気づく。
まだ信じられないのかもしれない。
振り返れば、牧師様が笑っていて、また聖書の話を聞かせてくれるかもしれない。オルガンを私が弾けば、上手になりましたね、と褒めてくれるかもしれない。
小さなソファに並んで座った。
ここは、幼い頃私たちの指定席だった。

「もう、二人だと狭いな」
「そうだね」

それだけ時間は過ぎたのだ。
手元のカップの中で揺れる琥珀色のアールグレイ。
この香りは故郷の香り。
牧師様が好んで飲んでいたものだ。

「去年くらいからおじいちゃんは調子がよくなくて、家族がアメリカに帰ってくるように説得してたんだけど、おじいちゃんは頑として帰ってくることを拒んでいたんだ」
「そうなの」
全然知らなかった。
「なぜだかわかる?」
私は首を横に振った。

「おじいちゃんは、千代さんを愛していたんだ」
「おばあちゃんを?」
私は驚いてアレンの顔を見つめた。
「千代さんとおじいちゃんが想い合っていたのを知っている?」
「し、知らない。あ、でも結婚前に好きな人がいたっていうのは・・・。もしかして・・・それが?」

戦後、キリスト教布教のために両親と共に来日した牧師様と祖母は恋に落ちた。けれど、祖母の親はアメリカ人である牧師様との結婚にはひどく反対した。
当たり前だ。
敵として戦った国の人間を、多くの日本人を殺めたアメリカ人を認めることなどできなかったのだろう。
そして強引にお見合いをさせられ結婚した。
牧師様もその後、アメリカへ戻りアメリカ人女性と結婚した。
けれども、奥様を亡くした後、再び日本へとやってきた。
そして、祖母と再会したのだ。
別々の人生を歩むことになった二人が再び出会ったのは、運命だったのだろうか。
教会へ行ったとき、祖母の顔がまるで少女のように明るくなるのがいつも不思議だった。
二人は決して結ばれることはなかったけれど、でも再び出会い、共に時間を過ごすことができた。

「牧師様はどうしておばあちゃんを看取った後、アメリカへ帰らなかったのかな」
「わからない?」
「え?」
「君が・・・シノがいたからだよ」
「私・・・?」
アレンは私の右手にゆっくりと触れた。
覆い被さる彼の大きな手のひらがヒンヤリと冷たかった。
「でも、私は・・・」
「ご両親が離婚したんだってね。シノが多くのことに傷ついていることを、おじいちゃんはすごく気にしていた。きっと、千代さんによく似たシノを残して母国へは帰れなかったんだろうな。シノがいつか訪ねて来たときに、笑顔で迎えられるように、君の還る場所を守っていたんだ」
「そんな・・・」
まさか、そんなことが。
私は家庭のことを何も話さなかった。
父に暴力を受けていることすら、話していない。
「どうしてそんなことわかるの」
アレンは牧師様ではない。
牧師様の本当の気持ちを知っているはずはないのに。

「一度だけね、おじいちゃんが話をしてくれたことがあった」
「どんな?」
「此処は愛する人が還って来れる場所でありたいって、言ってたよ。シノや、僕が還りたいと思える場所にしたいって」
「そう・・・」
「ごめんね、シノ。僕は一番辛いときに側にいてあげられなかった」
「だって、アレンの家は遠い場所だもの」
「それでも、僕は此処へ来ればよかったのに。変な意地をはってたんだ」
「意地?」
「シノに認めてもらえる男になろうと思って、必死で勉強した。日本の大学へ留学しようと決めたんだ」
「え?」
「シノ」
「アレン・・・」
「初めて会ったあの日から、ずっと君のことだけを見ていた。ずっと愛していたんだ」
「え、と」
「ごめん、こんな時にこんなことを言うなんて不謹慎だね。でもおじいちゃんは応援してくれてたから、きっと、おじいちゃんが僕たちをもう一度引き合わせてくれたんだと思う」

「わ」

私は、アレンの突然の告白に思わず、手元のカップを落としそうになって残っていた紅茶がピシャリ、とスカートにかかった。
「大丈夫?」
「うん。少し濡れただけ」
アレンがタオルを持ってきてくれ、丁寧に拭いてくれる。
「少し染みになるかもしれない」
「平気。ごめんなさい」

手が、触れる。
瞳が、重なる。
心が、揺れる。

「好きだ、シノ」

もう一度、アレンが言った。
どきどき、する。

彼は私の初恋の人。
そして、今でも好きな人。
もう二度と会うことはないと、思っていた人。
もう一度会えた。
最後に牧師様が会わせてくれた。

ゆっくりと、私は瞳を閉じた。
唇が重なり合うのを感じて、私はアレンの首に両手を絡めて抱きついた。

時が流れる。
静かな時がゆったりと。
どれくらいの時間、抱き合っていたのかはわからない。

私たちはいつしかひとつの毛布にくるまって、小さなソファの上でしっかりと手をつないで、ぴったりとくっついて眠っていた。







 




    




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