緑の道








「ハイ、シノ!久しぶりだね。迷わなかった?」
「ハイ、アレン。大丈夫よ」
賑わう空港で私たちは当然のように抱き合って再会を喜んだ。
この国ではそんな光景は当たり前で、特に目立つこともなかったけれど、私からしてみれば”外人”ばかりのこの場所では少しばかり緊張していたので、アレンの姿を見つけてほっとしていた。
生まれた国も、育った国も違う私たちが出会ったのは、随分と昔のことだ。


 *  *  *


あれは私がまだ7歳になったばかりの暑い夏の日だった。
いつものように祖母に連れられて街の外れにある教会へと足を運んだ。
教会へ続く細い道が、緑いっぱいの木々に囲まれていて、木々の合間から降り注ぐ木漏れ日がキラキラと光っていたことから、緑の道と呼ばれていた。
教会には白いひげの牧師様が一人住んでいて、私たちが行くと必ずオルガンを弾いて賛美歌を歌って聞かせてくれたり、聖書を読んでくれたりした。
そのどれもが英語だったせいもあり、牧師様に英語を教わっていたので私はこの頃にはすでに英語がペラペラだったらしい。
私は牧師様が大好きだった。

「ハロー、牧師様」
「こんにちは、紫乃さん。千代さん」
扉を開けて教会に入ると、牧師様の笑顔が飛び込んでくる。
いつもと違ったのは、そこに金髪の色の白い小さな男の子が立っていたことだ。
じっと私を見つめる瞳が、まるで夏の空のように青かったのが印象的だった。
「だあれ、その子」
「孫のね、アレンです。ほら、ご挨拶なさい」

「アレンです。よろしく」

差し出された手が、妙に冷たかった。
幼い私たちは当然のようにすぐに仲良くなった。
アレンは夏の間だけ、祖父である牧師様のところで過ごすことになっていて、私は夏休みの大半をアレンと一緒に遊んで過ごした。


「ねえ、シノ。いつかアメリカにおいでよ。日本よりもずっとずっと広い空が見られるよ。広い空に広い大地がとても綺麗だから」
「ホント?すごいな。見てみたい」
「ここのね緑の道とよく似た場所もあるよ」
「へえ〜。きっと素敵な場所なんだね」
四つ葉のクローバーを探しながらアレンは自分の国のことを色々教えてくれた。
それは私にとっては未知なる世界の話で、とても面白かった。
「でも僕はこの場所も好きだよ。おじいちゃんやシノがいるから」
「うん!」
「はい、シノ。プレゼント」
アレンはいつの間にかシロツメクサで花冠を作っていた。
四つ葉のクローバを一緒に探していたはずなのに、いつの間に。
私の頭にそっと乗せながら、アレンは笑った。
「お姫様のできあがり」
「ありがとう」
そのシロツメクサの花冠の間に四つ葉のクローバーが混じっていたことに気づいたのは家に帰ってからだった。
「シノは僕のお姫様だよ」
「じゃあ、アレンは王子様?」
「王子様にしてくれるの?」
「うん。アレンは物語に出てくる本当の王子様みたいよ」

この頃の私たちはいつも笑っていた。

私はアレンがひとつ年上だということと、少しだけ日本語が話せるということ以外何も知らなかった。
この頃の私たちは純粋に時を過ごして、その時間に終わりが来ることを疑いもしていなかった。


私が10歳になった年の雪の日に祖母が亡くなった。



 *  *  *



父が暴力を振るうようになったのはいつからだっただろう。
時代が不景気に突入して、仕事が上手くいかなくなった頃だったのか、それとも祖母が亡くなってからか。
母が泣いてもうやめてと叫ぶのを私は母に庇われながらぼんやりと聞いていた。
家がおかしくなってからも私は教会へ通うことをやめなかった。
光の雫が降り注ぐ緑のトンネルを通って教会に行き、オルガンを弾いて牧師様と話をすると、どんな環境にあっても私の心は癒された。

「紫乃さんももうすぐ高校生ですねぇ」
「そうですね。牧師様のおかげで、私、英語だけはいつも一番ですよ?」
「ああ、それは嬉しいことですね」
私はオルガンの側にあるヒーターにあたりながら、ステンドグラスの窓を見つめた。初めてこの窓を見たときとても感動したのを覚えている。
「牧師様」
「はい」
「私、引っ越しすることになったんです。両親が離婚して、母について行くことになりました」
私は抑揚のない声でそう言った。
離婚の話を聞かされたとき、ああ、やっと父から解放されるのだと思った。
『紫乃はお母さんについてくるわよね』当然のように出た母の言葉に、私は頷いた。父にはもう新しい女性がいたし、側にいれば暴力を振るわれる。父についていく理由も、父を選ぶ選択も考えられなかった。何より、母には私が必要で、私にも母が必要だったのだから。

「もう、ここには来られません」

涙を流す理由はないのに、やっと辛い現実から逃れられるはずなのに、私の瞳からは一粒の雫が頬をつたった。
両親が離婚したことより、新しい場所へ引っ越すことより何よりも、私はこの場所へきて牧師様に会えなくなることが一番悲しかった。
そしてもうアレンを待つこともできず、あの幼い日々に戻ることはできないのだ。

「紫乃さん」

牧師様は淡い紫色のハンカチを差し出してくれた。
牧師様は気づいている。
今日、私が一度も笑っていないことに。

「神様は貴方が耐えることの出来ない試練はお与えにはなりません。紫乃さんはご自分の信じる道を進んでください」
私の手を握りしめながらゆっくりとそう口にした牧師様の瞳から涙が零れた。
初めて見る牧師様の涙。
これまで優しく穏やかな微笑みしか見せなかった牧師様が泣いていた。
私の瞳からはいっきに思いが込み上げる。

私は声をあげて泣いた。

牧師様にしがみついてただひたすら泣いた。
ずっと我慢してきたものをすべてはき出すかのように。


「牧師様、アレンは元気ですか?」
ひとしきり泣いて落ち着いた頃、私は迷いながらも尋ねた。
アレンとはしばらく会っていない。毎年のように夏を共に過ごしていたのに、中学に入るとぱったりと日本へは来なくなった。
学校のイベントやクラブ活動で忙しくなったのは私も同じだったので、当然と言えば当然のことだったけれど。
私が還りたいと思うあの優しかった時間を一緒に過ごした大切な男の子。
彼はもう私のことを忘れただろうか。
「元気にしているようですよ」
「そうですか。よかった」
アレンとももう二度と会えないかもしれないな、そんなことをぼんやりと考えた。
思えば、私の初恋はアレンだったかもしれない。
金髪の色の白い男の子は私に大切な思い出をくれた。


「今まで、ありがとうございました」
「お元気で、紫乃さん」
「牧師様も」

私は深く頭を下げた。
もう、ここへは来ることがないかもしれない。
幼少時代から多くの時間を過ごしたこの場所は私の心の故郷だ。
最後に少しだけ微笑んで、教会を後にした。

振り返ることなく、私は緑の道を歩いた。






 




    




inserted by FC2 system