蒼き月の調べ


波瀾編

第2章



「柊弥様より、会社のほうへお連れするようにとのことですので、このまま向かいますがよろしいですか? ――空音さま?」
「はい……」
「大丈夫ですか?ご気分が悪いようでしたらどこかで休憩いたしましょう」
「でも、柊弥さんが……」
「体調が優れないとお伝えいたしますから」
 春子からいつになく優しい言葉をかけられ、空音は頷いた。
 急におそってきた眩暈と気分の悪さに、空音は思わず後部座席で横たわる。目を閉じると、低い男の声が耳に届いて、それがもうひとりのボディガード、孝一の声だということに気づくのにあまり時間はかからなかった。携帯電話で空音の状況を柊弥に報告しているのだろう。その声のトーンがどこか柊弥に似ているようで、安堵を感じながらも、やっと孝一の声を聞くことができたとぼんやり考える。
 吐き気はあるが、吐きそうにはならないそんな気分の悪さを抱えながら耳をすましていると、春子が飲み物をもってきてくれた。春子の腕に寄りかかりながら軽く身体を起こして水分を口に含むと少しだけ気持ち悪さが和らぐような気がした。
「ありがとうございます」
「いいえ、他になにか欲しいものはございますか?」
「大丈夫です……」
 車窓からコンビニエンスストアが見え、学校近くにいるのだとわかる。これから少し休憩して柊弥のもとへ向かうのだろう。そう思うと今度は胸がドクドクと高鳴る。尚弥に言われた言葉が脳裏をよぎる。
 父親や父方の親族に関わる日が来ることを全く予想していなかった。いわば両親が離婚した後、面会もなく父親から空音には一切の接触もなかったため、父親には捨てられたものだと思っていたからだ。慰謝料も養育費ももらっていないのだと後から知らされた。その父親が余命宣告を受け、実の娘の存在を思い出したのだろうか。単にそれだけならば、尚弥の言った”金目当て”は当てはまらない。
 過去のことや現在のことが交互にぐるぐるぐるぐると頭を駆け巡り、いろんなことを考えているうちに再び気分が悪くなる。
「このまま病院に向かうようにとのことですので車を動かしますが大丈夫ですか?」
「あの、海棠家のお屋敷に戻るのではだめですか?」
「ですが……」
「お願いします」
 柊弥の職場である都心までは少し距離があるが、海棠家の屋敷ならばここからもうわずかだ。病院に行くくらいならば早く戻って部屋で休むほうがいい。
「少々お待ちくださいね」
 春子はそう言うと、空音の言葉を柊弥に告げ確認をとったのだろう。空音の望むとおりにしてくれた。
 屋敷に着いて、空音が自ら車を降りようとするところを遮られ、孝一に抱えられた。ボディガードの仕事がどこまでのものか空音には分からないが、ここまでしてもらってもよいのだろうか。
「柊弥様が、今日はこちらにお戻りになるそうです」
 空音に話しかける孝一の声をはっきりと聞き、ほのかに嬉しい気持ちになる。これまでどんなに話しかけても応じてくれなかった彼が、初めて空音に話しかけてくれたのだ。
 空音の部屋ではすでに布団が敷かれており、そのまま布団におろされた。使用人の女性ひとり残し、春子と孝一は頭を下げると早々に部屋を退出していく。
「お着替えをされたほうがよろしいかと思いますので」
 さっと着替えを出され、空音はそれを受け取った。
「大丈夫です。自分でできます」
「では、何かございましたらすぐにお呼びくださいませ」
「ありがとうございます」
 彼女は水の入ったビンとコップを枕元に用意すると、静かに部屋を出て行った。
 はあ、とため息をつき、制服を脱いで部屋着に着替える。制服を畳み終えるとそのまま布団に倒れこむように横になる。
 宿題があるのに、甲斐とのレッスンもあるのに、とぼんやりと考えながらも、猛烈な睡魔に襲われ、全身が金縛りにあったかのように重くなり、そのまま空音は深い眠りに陥ってしまった。

「ご気分はいかがですか?」
 目が覚めて朝だと思っていたら、まだ帰宅してから2時間ほどしか経っていない。使用人に声をかけられ、少し楽になりました、と答える。言葉のとおりで、先ほどの気分の悪さが嘘のように消えていた。一体何だったのだろう、とさえ思いながら身体を起こし、用意してもらった水を一気に飲み干した。
「ご夕食はいかがいたしましょう?」
「いただいてもいいですか?」
「ではご用意いたしますね。それと、先ほど柊弥様がお戻りになりまして、お通ししてもよろしいですか?」
「……はい」
 柊弥、という名前にどきり、としながら頷いた。
 夕食は部屋に運んでもらい、同時に柊弥が入室してきた。いつもと変わらない態度にホッとしながらも、どこか気まずい気持ちを隠せない空音は必死でいつもどおりの表情を作る。

   



   



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