蒼き月の調べ


波瀾編

第2章



「随分と顔色はよくなったようだ」
「はい、少し寝たら気分はよくなりました」
 笑顔を見せられ、柊弥は心底ホッとする。気分が悪いようだと連絡をうけ、仕事を和義に任せて戻ってきた。眠っている空音は青白い顔をして苦しそうにも見えたが、目の前にいる姿を見ればかなり血色もよくなっている。
「空音は何かあるとすぐに体調を崩すからな」
「……ごめんなさい」
 恥じるように謝罪され柊弥は苦笑する。
「謝る必要はない。身体が無理を訴えてくれているのだからむしろありがたい。空音が言葉にしなくてもわかるからな。――あまり傍にいてやれなくてすまない」
 柊弥は忙しい。以前にも増して仕事の量が増えているのだ。出張に加え、様々なことで突然呼び出しもある。それらのすべてに対応しているわけではないが、海棠家の屋敷に戻り泊まっていける日はないに等しい。
 にも関わらず空音は何も言わない。柊弥の仕事のこと、忙しくしていることに何の不満もうったえてはこないのである。
「柊弥さんこそ謝らないでください。お仕事は大事ですから」
 空音の気遣いが、時に柊弥を悩ませる。
「空音はもう少し我がままを言ってもいいと思うのだが」
「でも、柊弥さんを困らせるようなことはしたくありません」
「時には困らせてくれればいい」
 柊弥が言うと、空音は首をかしげた。そのしぐさがあまりに可愛らしく柊弥の心を和ませる。空音の手を取り、その細長くしなやかな指に自分の指を絡ませるように握った。こういったことに不慣れな空音の緊張感が伝わり、更に愛おしさが増してくる。
 忙しさの中、時折浮かぶ空音の笑顔を支えに時間を過ごしていた。たまに会えるときにはなにげない話をしてゆったりと過ごしたい。
 けれども現在の柊弥にはあまりにも自由になる時間が少なすぎる。
「――今日、村上静子という女性に会ったそうだが、空音は彼女を覚えているのか?」
 柊弥の問いかけに、空音は一瞬戸惑うような顔を見せた。
「いいえ」
 空音は首を横に振って小さく答える。
「実の父親が病気だとか」
「そうみたいです」
 まるで他人事のような言い様に、やはり空音にとって父親という存在は遠いのだろう。
「空音は、会いたいか?」
「……わかりません」
「そうか」
 当然だろう、と思う。今はただ混乱している。こんな状態にある空音の傍を離れなければならないことがなんとももどかしい。
「柊弥さん……」
「どうした?」
 空音の見上げる視線を間近で受け止めながら、次の言葉を待つが空音の口は閉ざされたまま微かに震えていた。
「空音?」
「いえ、あの、会いに来てくださってありがとうございます」
「私が、空音に会いたかったんだ」
 空音の悩ましげな表情と微かな笑みに少々不安を覚えつつも、柊弥は絡めていた指を惜しむように手放した。
「いつまでもこうしていたいが、そろそろ食事にしたほうがいいな」
 空音のお腹が時折クルクルと音を立てていた。空音に微笑みかけると、空音は真赤な顔をしていた。
「しゅ、柊弥さんはまたお出かけになるんですか?」
「ああ、まだ仕事が残っているからな。だが空音の食事の間くらいは傍にいられる」
「柊弥さんはもうお済みなんですか?」
「移動中にすませてしまった。空音が起きているならば一緒に食べたかったと少し後悔しているところだ」
 柊弥は残念そうにそう告げると、空音は上目遣いで柊弥を見上げてきた。
「こんなにたくさん食べられないので、柊弥さんも一緒に少し食べませんか?」
 夕食は空音の体調を配慮してか、魚や煮物、お浸しなどあっさりとしたメニューになっている。食べられるものを食べれば良い、ということだろう。確かに一品の量は少ないが品数は多い。
「では、空音が苦手なものをいただこうかな」
「苦手なわけじゃ…」
「冗談だ」
 柊弥は笑うと、部屋を出たところに控えていた使用人に箸をもう一膳頼んだ。
 まだ気になることはあったが、空音とふたりで過ごせるこの貴重な時間をただ穏やかに過ごしたいという気持ちからか、柊弥はそのことについて触れることはなかった。
 空音には市村兄妹を常に傍に置いている。ひとりで勝手なことはできない。なにかあればすぐにこうやって連絡が入ることにもなっている。そんな安心感からか、柊弥は10代の少女の心いかに繊細であるか気づいていなかった。

   



   



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