蒼き月の調べ


第5章



「ここは、自然が多くてとても素敵なところですね。春になったらたくさんお花が咲くんでしょうね」
「そうだな。また春に来てみるか?」
「いいんですか?」
「もちろんだ」
 雪道を歩きながら、滑りそうになった空音の身体を柊弥が支え、そのまま空音の手をとってしっかりと繋いだ。
 道路は雪かきがしてあるものの、歩道は2、3の足跡があるばかり。そんな道を空音が歩きたいと言ったのだ。あまり雪遊びなどしたことのない空音には珍しい光景で、ハラハラしながら見守る柊弥の隣で、時折雪を手にとっては楽しむ。
「寒くはないか?」
「平気です」
 新雪が陽の光を浴びてキラキラと輝いている。どこまでも広がる白銀の景色があまりにも眩しくて空音は思わず目を細めた。
「綺麗な雪ですねぇ」
「空気が澄んでいるからだろう」
「ここの雪だったら、カキ氷にして食べられそうですよね?」
「カキ氷…」
 ぎょっとしている柊弥に空音はにっこりと微笑む。
「子どもの頃、思ったことないですか?降り積もった雪に、シロップをたっぷりかけて、たくさんカキ氷を食べてみたい、って」
「さあ、どうかな。思ったこともあるかもしれないが」
「でしょう?」
 どこか思い当たる節があったようだ。空音がくすくすと笑っていると、柊弥が突然足を止めた。
「柊弥さん?」
 不思議に思って空音が首をかしげると、柊弥はまっすぐに空音を見つめた。

「空音、両親に会ってくれてありがとう」
 過去に柊弥が連れてきたという婚約者は彼の両親を受け入れることができなかった。柊弥の中に愛情があったのかどうかは本当のところ空音にはわからない。けれども、きっと柊弥は自分の両親を拒否されたことに、酷くショックを受けたのではないだろうか。
「わたしの方こそとても素敵な時間をありがとうございます」
 空音がそう言うと、柊弥はふ、と笑みを見せる。
「母は、あの調子だから公の場には姿を出せないんだ」
「はい」
 柊弥の表情を眺めながらふと、母親に存在を忘れられるのはどんなにか辛いだろうと思った。空音の母は幼い頃に亡くなっていて、確かにそれは辛いことではあるけれど、それとはまた違う苦しみがあるように感じられた。
「お母様はいつから…」
「小学生くらいの時だったと思うが、気づいたら私と弟は祖父母と暮らしていた」
「そうですか……」
 人は外で見せる表情の裏で、いろんな事情やいろんな重いものを背負って生きているのだと気づいたのはいつだっただろうか。友人の夕海はいつも明るく悩みがなさそうだと言われているけれど、実は複雑な環境で育っていることを、空音は知っている。何も問題がなさそうな家庭にいても、内実がどうかなんていうのは周囲には分からないものなのだ。
「あの、柊弥さん」
「どうした?」
「以前、柊弥さんは辛い気持ちを独りで抱えるな、ってわたしに言ってくれましたよね。柊弥さんも独りで抱えたりしないでくださいね」
 空音を助けてくれる人はたくさんいる。たったひとりになってしまっても、こうして海棠家に迎え入れてもらい、好きなことを学ぶための環境を整えてもらえた。きっと、柊弥もまたいろんな人に助けてもらいながら、多くの重責を担っているのだろう。空音の力では何もできないに等しいが、柊弥の傍にいて微笑むことはできる。柊弥が聴きたいというのならオルガンやピアノを弾くことはできる。大切にしてもらえ、守ってもらえるのは嬉しいけれど、自分だって役に立てるのなら柊弥のために何かしたい、と思うのだ――そう、柊弥に喜んでほしい、笑っていてほしいと思う。
「空音?」
 この気持ちをどう言葉にすればいいのだろう。思い悩んでいると柊弥の両手が空音の両手を包み込む。温かい大きな両手。いつも空音を暖めてくれる。柊弥は自分の気持ちを空音に伝えてくれた。だから空音も言葉にして伝えなければならない。
 空音は柊弥の指にぎこちなく自分の指を絡ませながら、俯き加減に声をしぼり出す。 
「わたし……柊弥さんのことを考えると楽しくて、会えたり、一緒に出かけたりすると凄く嬉しいんです。それなのにそばにいてお話するとドキドキしたり、恥ずかしくなったりして、だけど抱きしめてもらえるとホッとして……少し会えないとさびしくて、声が聞きたくなって、柊弥さんの笑った顔が見たくて……こういう気持ち、好きって……」
 ―――言うんですか?
 柊弥は空音に最後まで言わせなかった。見上げた空音の唇を塞いで、思いっきり抱きしめる。ぱさり、と枯れ木に積もった雪が落ちる音が聞こえた。何度も何度も啄ばむようなキスをされ、空音は黙ってそれを受け入れる。
 死ぬほど恥ずかしい、そんな気持ちでいるところに柊弥が口を開く。
「いいのか?」
「え?」
「私で、いいのか?」
「はい」
「このまま、婚約と言わず、結婚まで進めることになっても?」
「……はい」
 空音が返事をすると柊弥はもう一度力を込めて抱きしめた。
「冷たい、な」
「え?」
 空音の身体を捕らえていた大きな手のひらが空音の頬に触れる。
「頬が冷たい。車に戻ろう」
「はい」
 高鳴る鼓動が柊弥に聞こえてしまいそうで、空音が顔を隠すように俯くと、柊弥はそっと耳元で囁く。
「どこかに寄って行こうか?」
「え、でも柊弥さんお仕事は?」
 驚いて柊弥を見上げると、柊弥は優しい笑みを浮かべている。
「たまには休んでもいいだろう」
「本当ですか?」
「確か、この近くにあったな。空音が行きたがっていたオルゴール館が」
「え、いいんですか?」
「ああ、せっかく来たのだから。それに空音の成績は申し分なかったからご褒美だな」
 何でも知っているという言い方に空音はハッとする。
「み、見たんですか!通知表」
「いけなかったか?」
「そんなことはないですけど」
 見てくれと言わんばかりに、ダイニングに置いてあったからな、と告げた柊弥を恨めしげに見つめる。峰子に通知表を見せるのは当然のような気がしていたが、まさか柊弥にまで見られるとは思っていなかったので、恥ずかしさでいっぱいになってしまった。
 車が目的地に止まると、柊弥にしっかりとエスコートされる。頬が紅いのは車内の暖房のせいだけではないだろう。
「空音」
 名前を呼ぶ声がくすぐったく感じながら空音は、はい、と明るく返事をした。
 凍るような冷たい風さえも少しだけ心地よく感じた。

   




   



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