蒼き月の調べ


第5章



 期末テストが終わり、冬休みに入った空音を連れ、柊弥は他県にある別荘のひとつを訪れた。雪の季節にはスキーを楽しむ客たちで賑わうペンションが多く立ち並ぶ場所から少し離れた場所にある、海棠家の広大な敷地の中にその別荘はあった。このあたりはまだ積雪が少ない。
 自然の多いこの場所で、ふだんあまり見ることのできない雪を見ながら空音は嬉しそうにしている。そんな空音の隣で柊弥の心は重たいままだった。両親と会うときはいつもそうだ。会いたくないわけではない。けれども、母の姿を見るのが辛いのだ。
「あの建物だ」
 この別荘は日本で過ごすときのため柊弥の父、純弥が建てたものだ。海棠家に関わるものすべてを取り払った小さな建物で、レンガ造りのそれは柊弥の母、唯が好きな童話に出てきそうな温かい雰囲気に包まれている。日本に帰ってきたときは、”知人から借りている”ということになっているこの家で過ごすことは決まりのようになっていた。
「空音、母に会えば驚くだろうが、話を合わせてもらえると助かる」
「はい」
 唯には記憶がない。海棠家で過ごしたすべての記憶が抜け落ち、純弥とは普通の結婚をし、自分はごく普通の主婦だと信じ込んでいる。その姿は海棠家で過ごしていた頃の唯に比べ、幸せそのもので、誰もがもはや真実を告げるつもりはない。
 だが、最近は記憶障害が激しく、自分がまだ二十歳前後であるかのような発言をしたり、そうかと思えば熟年夫婦として趣味に打ち込みながらゆったり過ごしていることもある。ちらりとその話を空音にしたところ、空音は特に何を言うでもなく頷いて聞いていた。その表情からは何を考えているのかは読み取れなかったが、おそらく聞くと会ってみるとでは随分違うだろう。その時空音が何を感じ、何を思うのか、柊弥はそれが少し怖かった。
 柊弥の不安はすぐに的中することになる。
 夜に別荘を訪れたときには柊弥と空音を夫の知人とその婚約者、として温かく迎えてくれたのだが、翌朝にはそんなことはすべて忘れてしまっており、朝食の席では若い頃の純弥によく似た柊弥が自分の夫だと思い込み、いきなり声を荒げ、自分を裏切った、出て行け、と激しく罵った。
「母さん」と柊弥が呼んでみてもわかるはずもない。ただ狂ったように大声をあげて暴れる唯に柊弥は途方にくれ、純弥が必死になって押さえ込んでいる姿を呆然と見つめることしかできなかった。
 黙ってその状況を見つめていた空音がすいと席を立つ。
「――あの、わたし、ピアノを弾きにきたんです」
 柊弥が止める間もなく空音は唯の傍に歩み寄り、膝をついて、そう言った。
「わたし、音大を目指していて、唯さんがとても音楽がお好きだと伺いました。ぜひ聴いてもらえませんか?」
 リビングに置いてあるピアノに目がいったのだろう。空音の言葉に、唯の身体がぴたり、と止まる。
「あの、弾いてもいいですか?」
 確認するように向けられた視線に、柊弥は静かに頷いた。
 空音はピアノの前に座ると、一瞬だけ瞳を閉じる。その横顔はすでに、凛とした表情が浮かんでいる。突然話題を逸らし、部屋の空気を変えた空音はそのままピアノを弾き始めた。
 滑らかで温もりのある旋律は聞きなれているはずの柊弥の心さえも簡単にとらえて放さない。最近はオルガンばかりでピアノなど弾いていないはずだが、やはり天性のものをもっているのだろう――空音の弾く曲が唯の心を予想以上に穏やかにさせたのか、彼女はすっかり安定した心を取り戻した。
「とても綺麗な曲。なんていうの?」
「『蒼き月の調べ』です」
「初めて聴くわ。とても素敵な演奏をありがとう。他に弾ける曲はあるの?」
 さきほどまでと打って変わり少女のように笑顔を浮かべる唯の姿にホッとしながら、改めて空音の持つ不思議な空気に柊弥は柔らかい微笑を浮かべた。
「楽譜があれば何でも弾きます」
「まあ。じゃあリクエストしてもいいかしら。バッハの『G線上のアリア』を――」
 その言葉にいち早く反応したのは柊弥の隣にいた純弥だった。
 空音はリクエストされた曲の楽譜を受け取ると、さらっと眺めたあと難なく弾きこなす。その部屋を空音の音が包み込み、まるでどこかの音楽ホールにでもいるかのような錯覚に陥る。唯の頬に涙が一筋伝うのを、柊弥は見た。決して悲しみのものではない涙。――今彼女は何を想っているのだろうか。
「不思議なお嬢さんだ。あんなに穏やかな顔をしている唯は久しぶりだ」
 純弥がぽつりと呟くのを聞いて、柊弥は軽く頤をひいた。
 『G線上のアリア』は、唯が柊弥を身篭っていたときに、胎教のためにとよく聞いていた曲だと聞かされたことがあった。
「柊弥、いろいろとすまない。多くの責任をお前に背負わせることになってしまった」
「いえ」
 突然の父のそんな言葉に、柊弥は少し動揺する。
 父と会っても、仕事の話以外はほとんどしない。特にここ何年かは会うことすらあまりなかった。そんな父に謝罪の言葉を告げられるとは思ってもいなかったのだ。
「これだけは忘れないで欲しい。私はお前と尚弥の幸せを願っている」
「―――あなたは…」
「ん?」
「これでいいんですか」
 あのような母と、身を潜めるように海外でひっそりと暮らす父。かつては祖父とともにその才能と能力をフルに活用して仕事に明け暮れていた。そしてそのことに誇りをもっていた父。今は白髪の見え隠れする髪を染めることもなく、海棠家の人間だと言われなければ気づかれることもない姿で、日々、質素な生活を送っている。
「大切なものはここにある。だから私は幸せなんだよ」
 空音の演奏に聞きほれている唯を見つめながら、純弥は小さく答えた。柊弥は無言のまま、唯の視線の先にいる空音を見つめた。

   




   



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