冬の小鳥〜雪どけ〜





速人さんの言うとおり、父からはいろんな条件をつけられつつも都心のマンションで一緒に暮らすことを認めてもらえることになった。
どうやら決め手の決定打になったのが、最近帰宅ラッシュ時の痴漢が増えていること・・・だったらしい。
なんだ。そんなことならもっと早くに訴えればよかった・・・と思ってみたけれど、そうするとまた辞めろと言われていたわけだし、速人さんが会社での私の立場を(そんなにたいしたことはしていないのに)父に助言してくれたことは大きな力となった。


父にとってみれば、私が速人さんと一緒に暮らして、しばらくしたら結婚し、仕事を辞めて家庭に入るのが望ましいと思っているのだ。
一緒に暮らすならすぐにでも結婚、なんて言われるかと思ったけど、林葉怜司の件もあってか、父はすぐには結婚という話を持ち出すことはなかった。母の話によるとその件は父も多少なりと反省しているらしい。
私に対して謝罪はまったくなかったけど。


もう少し先でも・・・なんてのんびり構えていた私の背中を押してくれた速人さんのおかげで、4月開校の通信教育でスクーリングあるインテリアコーディネーターの講座を申し込んた。手続きは会社で終わらせたので父に知られることはなかった。
影でこそこそやるのってなんだかどきどきしてしまう・・・そんなことを言うと、速人さんは真面目だなぁって笑ってくれる。
そりゃあ、一人暮らしをしている友人なんて親に黙って彼氏と半同棲生活を送っていたり、自分の給料で夜遅くまで飲みに行ったり、楽しんでいるわけなので、ハタチも過ぎて門限がある方がおかしいって言われるくらいだけど、ずっとそんな厳しい生活を強いられてきた私にとってはやっぱりどこか罪悪感のようなものが残ってしまう。

「お母様だけにでもお話してみたら?」
「そうですね。」
「でも、うん、そっかぁ、彼もなかなか頑張るわね。」
「え?」
「ふふふ。」

大沢課長は意味ありげに笑っていた。
速人さんと付き合うようになってからも良き相談相手になってくれている彼女は、本当に頼りになる先輩で上司。
私もいつかこんな風に後輩に接してあげられるようになりたいな、と感じていた。
けれど、大沢さんも3月いっぱいで退職だ。

「大沢さん、いつ頃大阪に行かれるんですか?」
「送別会の次の日かな。荷物はね、もうほとんど送ってあるし。会社も最後の方は有給を使わせてもらうから、早めに引き継ぎ終わらせちゃわないとね。」
「そうなんですか・・・。」
「やだ、そんな暗い顔しないで。次の課長はなかなか頼りになるから。」
「はい・・・。」

そうは言っても、淋しい気持ちは何も変わらない。
春は別れと出会いの季節というけれど、大沢さんとの出会いは特別だった。
よく、女の上司はお局様なんて耳にするけど、大沢さんは男女共、誰にでも好かれていて、仕事で厳しいことを言っても必ずフォローはしてくれるし、人の悪口なんて決して言わない。
女性でありながら、しっかりとした地位で仕事もこなして、私にとっては憧れの女性だったから。
いつか、私もこんな素敵な女性になれるだろうか。



送別会の日は会社全体がバタバタとしていた。
会社の3大飲み会?イベントなので、一応大きな理由がない限りは社員全員参加になっているから。みんな指定時刻までに仕事を終わらせるために必死なのだ。

私もその日ばかりは残業なんてことにならないように、朝から黙々と仕事にうちこんで、夕方にはなんとか終わらせると、別の人のヘルプにまわったり、総務課の仕事も頼まれたりしていた。
情報管理部へのおつかいに出され、途中でふと副社長室へとつながる廊下を眺めた。
会議をしているのだろう声がちらほらともれている。
きっと、彼も会議室にいるんだろうな、と思った。
今日の送別会にはもちろん出てくるに違いないけど、私と話す時間などないだろう。
多くの女性社員に囲まれて・・・。

そこまで考えて首を横にふった。
もてることなんて最初からわかっていたことだ。
今更そんなことを気にしている場合ではない。
早足で情報管理部へと向かった。



夜、ホテルの宴会場を貸し切っての立食パーティ=送別会。
だいたい社員がそろったところで、社長が挨拶をして退職する人たちの紹介をしていく。
周りを見ると、多くの女性社員たちは仕事用ではなく華やかな服装に着替えている。
やっぱり、社長と副社長が来るこういう場では、みんな気合いを入れるのだ。
こういうとき、私はどうしていいかわからなくなってしまう。
もともと同期入社した人たちが少ない上に、一緒に研修を受けた女の子は私の他に一人だけで、その子は入社して3ヶ月目でできちゃった婚で寿退社。
他の同期の男の子とも部署が違うし、話したこともほとんどない。
同じ部署の先輩女性もこういう場では同期で固まってしまうし・・・。

ひととおり、挨拶が終わると、あとはくだけた会食。
大沢さんのために出てきたようなものだから、大沢さんに挨拶だけして帰ろう・・・なんて思ってみても、男女共に信頼のある大沢さんの周りには大勢の社員たち。
当分近づけそうにもなかった。

仕方がないので、適当に料理をもらいに行こうとしたら、ホテルのスタッフの人が声をかけてきた。
「松井紀美香様でしょうか?」
「は、はい?」
「これを・・・渡すように頼まれました。」

笑顔でそれだけ言うと、私の手のひらに女性もののハンカチを乗せた。でもなんだか堅いものの感触を感じた。
ん?
私はよくわからず、そのハンカチを開こうとしてハッと気づく。
それはこのホテルのルームキー。
ルームキーがハンカチに包まれていたのだ。
一緒に包まれていた小さなメッセージカードには”疲れたら部屋で休んでて。速人”と書かれてある。

私がこういう場であまり人と関われないことを知っていて・・・
あーもう・・・どうしてこんなに気遣ってくれるんだろう。
速人さんだって今日は忙しかったはずなのに。

私は女子社員に囲まれている速人さんをちらっと見た。
その瞬間にバッチリと目が合う。

う・・・。

どうして見てるの・・・。
恥ずかしくなって思いっきり顔を逸らす。
ほんの一瞬のことなのに心臓がドキドキと激しく高鳴っている。
握りしめたハンカチに包まれている鍵。
ますます彼のことが好きになった瞬間だった。


私は、ようやっと上司たちの輪に入った大沢さんに駆け寄ると、お礼と挨拶をする。
今日は忙しいだろうから、と大沢さんの連絡先はあらかじめ聞いておいてよかったと思った。本日の主役は想像通り忙しい。

「カレにいじめられたらいつでも連絡してきてちょうだい?」

なんていたずらっぽく耳元で囁くと、また誰かに呼ばれて慌ただしく行ってしまった。
速人さんとも仲が良い彼女とはきっとまた会うこともあるだろう。



そして、私はハンカチを握りしめて、会場を後にした。







   




   



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