秋風そよぐ



プロローグ



「北野さん。」
「はい?」

それは、我が社の副社長と経理の松井紀美香さんの電撃結婚で社内が大変なことになっていた3月上旬のことだった。
総務部長から話がある、と呼ばれ第3会議室に入ると、彼は普段はあまり見せない穏やかな表情でこういった。

「北野さん、営業部にいってみないか?」







男は金と地位があったほうがいい。顔がよければなおさらいい。
好きだ愛してるだなんていうきれい事なんかいらない。



「だーかーらー、もう帰らないってば!こっちは異動になったばっかりで忙しいのよ!」
『でも、本当にいい方なのよ〜、ほらあなたの好きなイケメンよ。』
「前の時もそう言ってたでしょ。もう騙されないわよ!金持ちでイケメンさんだからお見合いしてみない?って同じこと言ってたじゃないの。ふたをあけてビックリよ。あれのどこがイケメンなのよ。芋面もいいところ、がまガエルのようだったじゃない。お母さんのイケメンの基準がおかしすぎるんだから。」
『今度は本当にあなた好みだと思うのよ。広い土地持っててね、跡継ぎだし、セレブな専業主婦になれるわよぉ。』
「どうせ、、北海道かどっかの農家のもっさい男じゃないの?なにがセレブな専業主婦よ、農家の嫁になんかならないから!」
『あら、よく農家ってわかったわね。』
「それくらいわかるわよ!もうわたしのことはほっといて!」

ガチャン!

きっと昔の受話器だったなら、そんな音を立てて思いっきり叩きつけていたに違いない。
今や、自宅電話のコードレスなんて当たり前だから、とりあえずベッドの上に投げつけた。
ああ。自宅電話恐怖症になりそうだ。
あの電話が鳴ったら必ず実家から。
そして次に出る言葉が、『いい人がいるの。会ってみない?』とくるもんだから、もう恐怖以外の何ものでもない。
どうしてほうっておいてくれないのだろう。
今の時代、女の初婚が30代だっておかしくはないのに。
ここ、東京に住んでる限り、24歳で結婚していない、なんてちっとも珍しくもなんともない。
けれど、あの場所では違うのだ。
世の中がどうであろうと、25までが結婚適齢期だと言い切っているところがこれまた厄介なのだ。

わたしが生まれ育ったのは、東京から新幹線で何時間もかかるような駅からさらに1時間に1本あるかないかの在来線で辿り着ける、小さな村だ。
今はもう市町村合併で地名だけは市になったけれど、別に地名が変わったところであの土地の人たちまで変わるなんてことは絶対にない。
あの場所では、人の噂話はその日のうちに町中に広まるのが当然だった。
だから、聞きたくもない昔の同級生たちの結婚話を何度聞かされたことだろう。

あの土地に嫌気がさして都会に出てきた人たちも何人かいる。
けれど、半分くらいがまたあの土地に戻っていくのだ。
その理由は様々だけど、「行くところがなくなった。」「大学を出てから結局定職に就けず、実家の農家を継ぐ。」「結婚を機に実家に戻る。」そんな理由が多かった。
それなのに、あの土地の人たちは口を揃えて「やっぱり田舎がいいんだ。」と言う。
そんなわけはない。東京に出てきて自由気ままな一人暮らしがどれほど幸せなのか、知らないからだ。大半の人が仕方なく戻るのだ。
でも、わたしは絶対に嫌だ。
そのために東京で就職をしたわけではないのだから。




4月、世の中は春真っ盛り。いつものようにパンツスーツでビシッと決め、化粧もバッチリこなす。これは総務にいた頃から変わらない。
3月頭に、上司から呼び出され異動の件を伝えられた。どうしても嫌なら今のままでもいいよ、なんて言われたけど、営業部へ異動、というのは悪くない話だった。
どうやら、営業部の部長である田中さん(柚葉と同じ名字だからすぐに覚えた)に気に入られたようで、ありがたいことに引き抜きの話だったから。それはつまりわたしの努力が認められたという隠しようのない事実。
総務の仕事でよく営業部には顔を出しているので、営業の人たちとも知り合いは多い。
仕事内容は営業事務で、主に書類整理や電話応対だから、外回りなんてこともないらしい。
断る理由なんて全くなかった。

4月1日付けで営業部に異動となり、営業部では主に営業一課で仕事をすることになった。
営業一課は男しかいない。もともと営業部は男性が多いが、営業一課は本当に男しかいないのだ。それは別に男女差別とかそういうことではなかったが、営業希望する女性社員が特に少ないことや、この男集団に嫌気が差して辞めてしまったり、異動を申し出たりする女性たちが後を絶たないのが理由だ。
そこで、田中部長はわたしに言った。

「君なら営業部のマドンナになってくれると信じているよ。」

語尾にハートマークの付きそうな勢いだった。
田中部長は決して悪い人ではないが、けっこう女たらしで有名だ。社内一女の影の絶えない副社長の後ろで影を潜めていたが、手をつけた女たちは数知れず、と言われている。
特にめちゃくちゃかっこいいというわけではないのに、もてる。
話がおもしろいからだ。
さすが営業部の部長になるだけあって、人の心を掴むのが上手なのだ。


「おはようございまーす。」
いつもの時間に出社するとすでにけっこうな社員が来ている。総務にいた頃はそんなに遅いとは思っていなかったけど、営業にきてからは実は自分の出社時刻は遅すぎるのか?なんて頭をかしげてしまうが、いや始業30分前だから決して遅くはない。
「おはようございます、北野さん。」
「北野さん、おはようございます。今日もお綺麗ですね。」
「おはようございます、デスク拭いておきました。」
挨拶と爽やかな笑顔を向けてくれているらしい男性社員たちに一応笑顔で挨拶をする。
入社3年目ともなると、後輩ができてくるが、なぜか先輩社員にまで敬語で話し掛けられちょっと戸惑う。
男たちに囲まれるのは決して気分が悪いわけではないが、なぜかこの集団は高校時代マネージャーをしていた野球部員の汗くさい感じと似ている。
わたしのような女にまで気を遣うとは相当女に飢えているのか。

「律子さん、コーヒーお持ちしました。」
「あ、どうもありがとうございます。」
なぜかコーヒーまでいれてもらえる。

自分のデスクに座ってパソコンの電源を入れる。
コーヒーを口にしながら、朝一番のメールチェック。仕事のメールもあるがそれは仕事が始まってから。とりあえず今は社内メールだ。

同期の柚葉から1通。

『やっほう。もう出社してるよね。じゃあ、おはよう、ってことで。
営業部はどう?慣れた?
男に囲まれて仕事なんて、律子にピッタリだね。どうかいい男が見つかりますように。』


昨日、残業だったのだろう。定時を大幅に過ぎている。
昨年社長秘書に抜擢された彼女・・・なんて羨ましい、と思ったけど、話を聞いていると華やかな役名とは違い仕事は大変そうだった。
男に囲まれて・・・ねえ?あの男たちに囲まれても・・・。
いい男ならまだ目の保養にもなるけど。


「おっす。」
後ろからポンっと肩を叩かれ振り返る。
同期の田端だった。

「あー、はよ。」

田端浩二は同期の中でも付き合いやすい男の一人だった。
柚葉や同じく同期入社の美絵とも仲がいいし。

「お前と話してると視線がこえーよ。」
「は?」
パソコンの画面の向こう側を見渡すと、なぜだかたくさんの視線を感じる。
「ここ、男所帯だからなー。お前、女王様気分だろ。」
「あー、確かにコーヒーいれてもらったり、デスク拭いてもらったり、なんか悪いわね。」
「まー、やらせとけば。好きでやってるんだし。ってそういえば、今度、一課だけで新入社員とお前の歓迎会しようってさ。」
「あ、そう。でもわたし女一人でいいの?」
「女だけだったら他の部署のやつら誘ってもいいみたいだけど。」
「ふーん。じゃあ柚葉とか誘っちゃおかな。美絵はたぶん来ないだろうし。」
「え、なんで?」
「あれ、知らなかった?あの子今妊娠してんのよ。」
「は?」

田端の顔がやけに面白く思えた。
まあ、わたしも話を聞いたときにはぶったまげたけど。
まさかあのおっとりやがトップバッターになるとは思わなかったわ。

「だ、だ、誰の子・・・?」
「それは極秘事項。」
「はあ?」
「ふっふ。どうでもいいけど、そろそろタイムアップ。」

もう少し田端の”信じられない”というあほみたいな顔を眺めているのも面白いけど、さすがにもうすぐ管理職の方々が出勤してくるだろう。
ああ、田端、今日一日仕事がおろそかにならなければいいけど。

同期が結婚・妊娠てやっぱりどこか驚きを隠せないというか、ショックなところがあるのだろう。
わたしだってそうだ。
あの社内の癒し系の美絵が、結婚・・・そして妊娠。
もちろんそれは知る人ぞ知るって感じだけど、すぐに知れ渡ることだろう。
別に美絵が幸せならかまわないけど、どことなく寂しさを感じてしまう。
でも驚いたのは、美絵が退職を希望しなかったこと。
あの子のイメージからすれば、結婚=退職、かわいい妻になって家庭に入る、なんてのがお似合いだけど、美絵は辞めなかった。ぎりぎりまで働いて産休・育休後にはまた復帰するつもりらしい。

美絵の相手は同じ企画課の上司沢村係長。もちろん社内では知られてはいない。
彼はこの春退職していった。普通辞めるのは女では?と思ったけど、この機会に彼はやりたい仕事に転職するのだと、美絵は言っていた。
密かに人気のあった沢村係長も辞め、副社長は結婚。
この春の女性社員のショックは隠しきれない。







わたしも農家の生まれです。分家なのでそんなたいしたことはなかったですが、いろいろ跡継ぎ問題とかめんどくさいことが多いですね。なので農家を馬鹿にしてるわけじゃないです(^-^;) 律子ちゃんはそういうことを知ってるので、農家の嫁になんかならないって思ってるんですね。もし嫌な気分になった方いらっしゃったらごめんなさい。





   



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