実はわたし、結婚してます



君がため




「ママ……もういっちゃうの?」
「ごめんね、玲斗。もっと一緒にいたいのだけど、ここに私たちがいるとお爺様のご機嫌が悪くなるのよ」
「パパも行っちゃう?」
「ええ」
「パパはぼくのことがきらいなの?」
「いいえ、お父さまはお忙しいだけよ。それから玲斗、ママとパパのことはお母様、お父様と呼ばなければまたお爺様に叱られてしまうわ」
「うん……」
「では、もう行くわね。国府田さんの言うことをよく聞いて良い子でね」
「うん……」
「お返事はうん、ではなくて、はい、でしょう?」
「はい」
「良い子ね。愛してるわ、玲斗」

そういって抱きしめる。
漆黒の長い髪を風に靡かせ颯爽と遠ざかる女を見送る、あの小さな子どもは―――俺だ。
なぜ、今更あの頃のことが。
遠い場所で、幼い自分を見つめていた俺は、これが夢なのだと思った。夢にしてはリアルすぎるのは、過去、現実にあったことだからだろう。夢の中の自分は冷静にそんなことを考えながら、幼い自分をただ見つめていた。

―――いかないで。

心の声は、誰にも届かない。届けられることなく、風に流されるようにして消えていく。

「ぼっちゃま、風が強くなってまいりました。さ、お部屋に戻りましょう」
「こうだ、おかあさまはつぎ、いついらっしゃるの?」
「どうでしょうねぇ。お仕事がお忙しいようですからね」
「こうだは、おとうさまはぼくのこときらいなんだとおもう?」
「どうしてそう思われるのですか?」
「だって、ぼくにあいにきてくれないもの。おかあさまはいそがしくてもときどきあいにきてくれるけれど、いっしょにきたことはないでしょう」
「お父上はお母上よりもお忙しい方ですからね。ですからぼっちゃまが嫌いで会いにこないわけではないと思いますよ」
「ほんとうに?」
「はい」

嘘だ。
そんなの嘘だ。

あの男は一度だって俺のことを考えたことなどなかったはずだ。父親と祖父の反りがあわないのはいつしか気づいていた。だからと言って、その祖父が死んだ後も、あの男が俺に会いにきたことは一度だってない。
顔を合わせるのは小石川家の年に一度か二度の集まりのときだけで、会話を交わすこともほとんどなかった。まるで他人のように、目を合わせることもしない。
姉とは比較的穏やかに会話をしているのを何度か見かけた。
その度に、確信していったのだ。

いつの間にか成長していた夢の中の俺は、冷淡な目で父親を見つめる。そこに怒りや憎しみをすべて込めるように。
視線の先に、優しく微笑みかける父親の姿があった。たぶん俺は一度だって見たことのない表情。その顔が向けられているのは、小さな小さな赤ん坊。
あれは……

―――悠斗!!

俺が手を伸ばしても、届かない。届かないどころかどんどん離れていく。離れていく先には母親と、千穂の姿も見える。

―――千穂!悠斗!

必死で声を出そうとするが、どんなに叫んでもそれは声にはならなかった。

「あなたはわたしの子どもまで奪うつもりなのですね」

後ろから冷徹な声が耳に届いて俺は振り返る。
そこにはなぜか自分によく似た―――若い姿の父親が立っている。まるで自分の心を代弁するかのようにその言葉は発せられた。

「あなたはわたしの夢も、願いも、友人も・・・そしてわが子さえも奪っていく。満足でしょうね。すべてはあなたの思うがまま」
「すべてではなかろう。お前には妻を選ばせてやったではないか」

不気味までな笑みを浮かべてそう答えるのは祖父だ。

「お前がこの家に興味がないというのだから仕方あるまい。この家を玲斗に継がせるまでだ。小石川家を捨てるというのであればすべて捨てるのだな」

その言葉に顔を歪めた父親の姿を瞳に映した瞬間、目の前が真っ白になる。
真っ白な世界はどこまでも続いているように思えたが、それは自分の部屋の天井だということに気づいて周りを見渡すと、すでに夜は明けているようだった。
起き上がると汗をびっしょりとかいている。

着替えもせず、風呂にも入らず寝てしまっていたのか、と思いバスルームへと向かった。
なんともいえない後味の悪い夢だった。
夢なのか現実なのかもわからない、そんな夢。
熱いシャワーを浴びながら、すべて流してしまいたいと思った。心の片隅に今も残る苦い記憶のすべてを。


   







   



inserted by FC2 system