実はわたし、結婚してます



君がため




『しばらく、距離を置きたいので、家をでます。心配しないでください』

自宅に帰ってみると、ダイニングテーブルの上には温かい食事ではなく、そんな走り書きのメモが一枚、置かれてあった。
すぐに千穂の携帯に連絡を入れてみるが、電源を切っている。メールの返信も全くない。

「あいつ、なに考えてるんだ」

この俺から逃げられるはずがない。しかも幼い子連れで遠くまで行けるはずもない。
しかも携帯をもってたらそれだけで居場所は突き止めることができる。
それをいきなり距離をおきたい?家出でもするつもりなのか?
一体なんなんだ、千穂のやつ。
今まで上手くやってきた。それがいきなりなんでこんなことになるんだ?
俺にはさっぱりわからなかった。
確かに先日実家に連れて行ったとき、千穂の様子が少し変だった。さっさと先に帰ってたしな。俺だって実家というだけで苦痛という以外ないのだから、千穂を気遣う余裕がなかったのは確かだ。変に会話をすれば千穂や悠斗に八つ当たりするだけだと思って何も言わずにいたが、それくらいのことで千穂が家出なんかするはずはない。
それなのに。
一体なんなんだ。

考えれば考えるほど、こんなことをする千穂のことがわからず苛苛してくる。
俺の力を使えば千穂がどこにいようとすぐに連れ戻せる。

さっさと連れ戻して、事の次第を問い詰めなければ。
俺はさっき別れたばかりの国府田に連絡をとった。千穂が出ていったことを簡単に話すと、国府田はわかりました、と言っただけですぐに俺の意図を理解してくれたようだった。

しばらくして携帯が鳴る。
しかし、それは国府田だけでなく母親からだった。

「なんだ。俺は今忙しいんだ」
『あら、それはごめんなさいね。ちょっと大事なことをお知らせしておこうと思って』
「大事なこと?」

電話の向こうの母親の声はなんとも言えない楽しそうだ。
こんなときに何が嬉しくて浮かれまくった母親の声を聞かなければならないんだ。勘弁してくれ。
と思った次の瞬間とんでもないことを口走った。

『千穂ちゃんと悠斗は預かったから』
「はあ!?」
『ほら、声を聞かせてあげるわ。かわいいかわいい悠斗ちゃんの声』

そして聞かされた、悠斗のあぎゃあぎゃという楽しげな笑い声。

「お前、なに……」
ふざけてるんだ?!
『ババアの次はお前ですか、母親に向かってお前とはなんです、お前とは。わたしは自分の子をそんな風に育てた覚えはないわ、ああなんて嘆かわしい』
「いい加減にしろ」
『いい加減にするのはあなたのほうです』

ふざけていたかと思うといきなり真剣な声で告げる。

『妻子を返してほしかったら、仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の裘、龍の首の珠、燕の産んだ子安貝を探してきなさい』
「はぁ!?なにわけのわからんことを言ってんだ」
『安心して、千穂ちゃんと悠斗はこのわたしが責任もって大切にお預かりするから、じゃ、がんばってね』

ぶちっ。
言いたいことだけさっさと言って勝手に切った電話の主に、あまりに怒りを通り越してあきれ返る。
なんなんだ、あの母親は。

千穂が出ていったこと自体、それほど重大だとは思わなかった。
それなのに、あの母親が絡んできたとなると、それは明らかに厄介ごとだ。

「まじかよ・・・」

千穂も悠斗もいなくなった静かな広いリビングルームで、ベビーラックがその主を失って寂しげに置かれているのを、俺はぼんやりと見つめた。






   







   



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