実はわたし、結婚してます



小石川家の妻




勢いに任せ、自宅のマンションに帰ってきたのはいいけれど、わたしがいないことに気づいた玲斗もすぐにここへ戻ってくるかもしれません。
けれど、わたしはどんな顔をして玲斗に会えばいいのでしょう。

わたしにはこの場所以外帰るところなどないのです。

リビングに広げたマットの上に目覚めた悠斗をおろすと、にこっと微笑みを向けられ、わたしは思わず涙ぐみます。
小さくて柔らかい手のひらに触れると、確かな温もりが感じられて、たとえ玲斗と別れがくる日がきても、この温もりだけは手放したくないと思ってしまうのです。
ずっと穏やかに、過ごしていければいいのにと願う一方で永遠には続かないこの儚い時間をいつかは手放さなければならないのだと、そしてそれはもう遠くないのかもしれないと感じていました。

そうしていると、玄関の扉が勢いよく開いて、玲斗が帰ってくるのがわかりました。

「れ、玲斗……あのごめんなさい。先に帰ってきてしまって」
「別に。あそこは居心地が悪いからな。どうせすぐに帰るつもりだった」

姿を見ると同時に謝罪したわたしの視線を合わせようとせずに、それだけつぶやくと玲斗はさっさと自室にこもってしまいました。
朝とはまるで違うこの空気にどうしていいかわからなくなりました。けれど玲斗は朝から不機嫌だったし、兆候がなかったわけではありません。
話をしなければ、と思ってはいるもののどうやって切り出していいかわからなくなります。玲斗がいつかは別れるつもりであることは確実にわかったのですから、この生活を終わらせようと思えばいつだって終わりにできるわけです。
けれど、それをわたしの口からはどうしても言い出すことができないのです。

翌朝、いつものように玲斗を見送り、何度目かのため息をつきました。そして、わたしは悠斗を抱っこ紐でしっかりと抱きかかえ、財布を握り締めました。
ここを出て行っても行く場所がないのはわかっていました。まさか幸せに暮らしていると思っている両親の元に突然帰るわけにもいきません。お姉ちゃんの住む海外に行くのも、とてもじゃないけれどできないと思いました。
それでも、どこかに部屋を借りれないか、何か方法はないかと、部屋に閉じこもっていては自分の心を救ってくれるものなど何もないのだと思うと、外で何かをしなければいけないような気がしたのです。

行く当てもなくふらふらと不動産屋さんを覗いたり、スーパーに貼り付けてある求人を見つけては立ち止まってみました。
ふいに住み込み歓迎!の文字を見つけて、住み込みで働くという手もあるんだぁと少しだけ希望が見えたような気がしました。もちろん幼い子を抱えてそれが可能かどうかはわかりませんが、とりあえず選択肢を広げるのは悪くないですから。

「千穂ちゃん?」
え、と振り返ると、そこにはユリアさんが車を止めてわたしの姿を見ていました。
「ユリアさん……」
できればこんなところでユリアさんに会いたくはなかったのですが。
「どこかに行くの?」
「えーっと」
どう返事をしていいかわからずわたしは俯きました。
「ほら、乗って乗って」

ユリアさんにそう言われれば拒否することなどできません。わたしはおとなしくユリアさんの車の後部座席乗り込み、ベビーシートに悠斗を降ろしました。
「この前は突然帰ってしまって申し訳ありませんでした」
「あら、いいのよ。こちらこそごめんなさいね。玲斗があんなな態度をとるものだから千穂ちゃんには嫌な思いをさせてしまったわね」
明らかにわたしの自分勝手な行動だったのにもかかわらず、ユリアさんは申し訳なさそうに言いました。
「玲斗はあの家が嫌いなのよ」
「嫌い?」
「だからってあの態度はねぇ」
「玲斗は……わたしとはもう別れたいんだと思います」
「え?」
つい発してしまった言葉にユリアさんが驚いたように声をあげます。
今朝だって、玲斗はまともに口を聞かず出かけていったのですから。
「もともと……いつか離婚するつもりで結婚したので」
「どういうこと?」
「わたし、玲斗から好きだとか愛してるって言われたことがないんです。結婚するときも、いきなり婚姻届渡されてサインしろって言われて。だから……。わたしとの結婚が玲斗にどんな得があったのかわからないんですけど」
「千穂ちゃん、あなた」

ユリアさんは何か言いたげな口元を一度閉じると、それからしばらく黙ったまま運転をし続けました。わたしは行き先も伝えていなかったので自宅マンションまで送ってもらえるものだと思っていたのですが、たどり着いた場所はまったく見知らぬ場所でした。
そして高級そうな住宅街の一角のシンプルだけれどどこか高級感のある門の前に車を止めて、警備員らしき人に声をかけると門を開き、中にゆっくりとその車を進めたのです。

「あの……」

思わず声をかけるとユリアさんは車庫と思われる場所に車を止めると後ろを振り返ってにっこり微笑みました。

「千穂ちゃん、今日からここに住みなさい。わたしの日本での自宅兼仕事場よ」
「はい?」
「家出しましょう、ね?」

わたしはユリアさんの口から出た信じられない言葉にぽかーんと口を開いたまま呆然としてしまうのでした。


   







   



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