実はわたし、結婚してます 〜ふたりの距離〜
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「千穂、これにサインして」
「え?」
翌朝、重たい身体を起こし、身支度を調えてリビングに顔を出したら、玲斗がそう言ったのです。
目の前には一枚の紙切れ。
そう。ただの紙切れ。
いえいえ、その一枚がわたしの運命を大きく変える紙切れだったのです。
婚姻届。
「え?」
もう一度わたしは玲斗の顔を見つめました。
どうやら冗談ではないようです。
わたしの書くべき欄以外はすべて埋めてあります。
もちろん玲斗のサインも間違いなくありました。
「サインして」
玲斗はもう一度言いました。
もう有無を言わせない状況です。
わたしの意志なんてまったく関係ない様子です。
機嫌のいい玲斗をちらちらと見ながらわたしは自分の名前を書いていきました。
よくよく考えてみると、わたしはあのおんぼろアパートからこんな凄いマンションに住まわせてもらい、食材もだいたいいつもそろってるので(誰が買ってるんでしょうか)買い物も必要なく、会社には行かせてもらえ、そして借金の肩代わりまでしてもらったのです。もちろん返すつもりですけどね。
これはすべて玲斗のおかげなのです。
そう思えば。
もしかしてわたしはものすごくものすごく恵まれているのではないでしょうか。
だってもしかするとわたしは今頃借金取りに追われていたかもしれませんからね。
確かにキスもセックスも玲斗に強要された形になってしまいましたが、でも決して嫌ではありませんでしたし、むしろ感じてしまったくらいですから・・・それに断固として拒否できなかったわたしにも責任はあるわけです。
本当にイヤなら殴っても蹴り飛ばしてでも拒否すればよかったのですから。
それができなかったのは、やはり玲斗には少なからず思いがあるのかもしれません。
好きとか愛とは違うと思うんですけどね。
きっと、玲斗にしても結婚も一時的なものなのでしょう。
人間ほら、魔が差したとか言いますからね。
ここまでよくしてくれた玲斗に、わたしもなにかお礼をしなければいけないのです。
ならば、なんでもすると言った手前、なんでもしようではないですか!
キスでもセックスでもなんでもこいです!
結婚だってしましょう!
どうせいつかは終わりがくるのです。
それまでの間、わたしはわたしにできるお礼を玲斗にしていけばいいのですから!
わたしは最後まで丁寧に書き、最後に印鑑を押しました。
結婚ってもっと慎重にするものだと思っていました。
恋をして好きな人と、一生を誓いあって、そして結ばれる。
まるで少女マンガのような結婚を、わたしは心のどこかで求めていたこともありました。
けれど実際はこんなものです。
こんな紙切れ一枚で結婚が成立するのです。
本当に不思議な話ですね。
「あ、しばらくはこの結婚のことは誰にも言うなよ。親にも友人にもな。とくに社内で知られるとちょっとマズイから」
「うん。大丈夫。誰にも言わない。言える人もいないし」
そうです。奈々ちゃんのことがあってから、わたしは少しだけ人間不信になってしまい、会社での人間関係もいつも一線を置くようになっているのです。
ですから相談できる人も愚痴を言える人も今はいないのです。
それにすぐにダメになりそうな結婚生活をイチイチ親に報告するのもどうかと思いますし心配かけたくありませんからね。
「じゃ、役所に行くか」
「え、もう?一緒に行くの?書類は?」
「普通一緒に行くもんだろ。戸籍謄本なら千穂の分も取り寄せてるし」
「そ、そっか」
「これで千穂が気にしてる借金問題も終わりだな。もう居候でもなんでもないから、妻として堂々としてろよ」
「う、うん・・・」
玲斗は妙にご機嫌です。
今までこんなにご機嫌な玲斗を見たことがありません。
一体何がそんなに嬉しいのでしょうか。
わたしを妻にすることで玲斗には一体なんの得があるのでしょうか。
わたしには全くわかりませんでした。
けれど、玲斗の清々しい横顔を見ていると、わたしも決して悪い気分にはなりませんでした。むしろ心のどこかで玲斗に出会えて良かったと思っていたのかもしれません。あ、お金のことではないですよ?
何度も言うようですが、お金はしっかり働いてお返しするつもりですから!
玲斗と暮らした数ヶ月間、違和感だらけに違いないと思っていた生活なのに、なぜか普通に馴染んで過ごすことができたのは事実です。
玲斗の不器用な優しさを見てしまったのも、わたしにとっては大きなことでした。
うーん・・・ただ戸籍を見られたら結婚の事実は発覚してしまいますね。
でも戸籍謄本なんてそうそう見ることもないですよね。
「千穂、今夜はホテル予約してあるからディナーな」
「え、わたし服とか持ってないよ・・・」
「俺が見立てるから」
「でも・・・」
「もう妻なんだから言うとおりにすればいいんだよ」
「う、うん」
玲斗は強引です。
この強引さに戸惑いもあります。
けれど、なぜかこの強引さにドキッとしてしまうことも正直なところ本当のところなんですよね。
井原千穂、もうすぐ23歳。今日から小石川千穂になりました。
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こんな感じで結婚してしまいました。
そしてこんな感じでずるずると結婚生活が続くのです(笑)
もともとこのお話のテーマは夫婦の恋愛です。
夫婦であっても恋をしているふたりを描きたかったのです。
恋をしてるけど恋してる自分にも気づいていない千穂ちゃん。
にしても前向きすぎですね。ここまで前向きなら怖いモノなし。だからこそ玲斗ともつりあうのかしら・・・
ガンバレ、玲斗!
→後日談