実はわたし、結婚してます





月に叢雲、花に風






そんなある日のことでした。
「千穂!」
仕事を終えて会社から出ると突然、わたしの名前を呼ぶ声がして、わたしはきょろきょろとあたりを見回しました。
するとぐいっと腕を引っ張られ、ずんずんと引きずられるようにそのまま歩き始めました。
わたしの腕をひっぱるのは帽子を深くかぶった一人の女性。
「え?」
少し歩いたところで、その主はわたしのほうへ振り返りました。

「な、奈々ちゃん?」

わたしは思わずまじまじと見つめてしまいました。
だって、初めて会ったときに比べると全然違っているんですもの。
明るくて、とても快活な美人なイメージの強かった奈々ちゃんは、なんだか目の下にはクマができているし、いつもバッチリメイクで決めていたはずの顔はほぼノーメーク。

「突然ごめんね。でも千穂しか頼る人がいなくて」
「え?」
「ね、どこか入らない?」
「う、うん・・・」
まっすぐ家に帰らなければ玲斗に怒られてしまうのですが、でも奈々ちゃんのあまりの姿にわたしは思わずうなづいてしまうのです。
これが嵐の前兆だということも気づかずに。
最近機嫌の悪い玲斗がさらに機嫌が悪くならないことを祈るばかりです。

「あ、あの・・・心配してたんだよ?」
「ごめんね。でもあの時はあたしも自分のことでいっぱいいっぱいだったの」
わたしはどんな会話をしていいかわかりませんでした。
もちろんもうお金のことは諦めていましたし、わたしが玲斗に返せばいいことなので、どうでもいいことです。けれどまさかこんなに突然奈々ちゃんが現れるとは思ってもみなかったので、正直困惑状態でした。
昔のように笑いあっていたのが嘘のようです。

「千穂、なんか雰囲気変わったね。初めて会ったときはなんかいかにも田舎から出てきました、って感じだったのに」
「え、そ、そうかな」

洋服や持ち物、メイク用品は全部玲斗が勝手に用意しますからね。たぶんかなり良いものであることは間違いありません。ま、元がそんなによくないのでつりあわない感じですけどね。
「千穂さっきから時計気にしてるけど、今日予定あった?」
「あ、うん・・・門限があって・・・」
「門限?ひとりぐらしじゃなかったっけ」
「あ・・・」
どうしよう。言っちゃっていいのでしょうか。
相手が玲斗だって知られなければいいのですよね・・・。

「実はわたし・・・結婚してて」
「え?・・・・・・」

一瞬、奈々ちゃんの顔が曇ったような気がしたのは気のせいでしょうか。

「そっか・・・結婚・・・・そうよね。わたしたちもう26歳だし。千穂も結婚したっておかしくないよね。でも結婚しても働いてるんだ。旦那さん稼ぎ少ないの?」
「えーっと。少ないわけじゃないんだけど、仕事楽しいし・・・」
わたしはどこまで話していいかわからずドキドキしてしまいます。
できればその辺はあまり追求してほしくないんですよね。
「ふーん」

どうしましょう。もしかすると玲斗の方が先に家に着いてしまうかもしれません。
わたしが連絡一本も入れてないとどんなお怒りがまっていることか・・・。でもここで携帯電話出してもいいのでしょうか。ものすごく悩むところです。
だって奈々ちゃんの存在を玲斗が知ってしまったら・・・
どうやら奈々ちゃんは会社に対して迷惑をかけたようですからね・・・。

「ねえ、千穂。一生のお願い。千穂も働いてるんなら少しくらい余裕あるよね。少しだけでいいの、お金を貸してほしいの。もちろんちゃんと返すから。前に借りたぶんも合わせて絶対返すから」
「え?」
わたしは奈々ちゃんのその訴えに、4年前の出来事が走馬灯のように駆け巡ってきました。
あの時もそうでした。
切羽詰った顔をした奈々ちゃんが、こうやってわたしに頼み込んできて・・・けれど、その後奈々ちゃんとは連絡がとれなくなってしまって・・・今日の今日まで、わたしは奈々ちゃんがどこで何をしているかすら知らなかったわけです。
わたしには奈々ちゃんの考えていることがさっぱりわからなくなりました。
結局のところ、お金がなくなってしまったから、わたしに会いにきたということでしょうか。
わたしなら貸してくれると思ったのでしょうか。
以前、簡単に貸してしまったから・・・。
あれ以降、わたしがどんな気持ちで過ごしてきたか、奈々ちゃんにはわからないのでしょう。
わたしはものすごく哀しい気持ちになってしまいました。
玲斗に言われたことがありました。

「千穂はお金に困ったら自分の大切な友達に金を貸してくれ、と言えるのか?」と。

答えはノーです。
大事な友達だからこそ、お金を簡単に借りるべきではないし、貸すべきでもないのです。

「司馬奈々にとって千穂は都合のいい女でしかなかったんだろ。おまえ、人がよすぎるから」
玲斗の言うとおりです。

「奈々ちゃん、ごめんなさい。それはできない」
「なんで?旦那さんうるさい人なの?」
「もちろん、れ・・・主人に黙ってお金を貸すこともできないけど、やっぱりお金は簡単に貸し借りするものじゃないって思うから」
「千穂!あたし困ってるんだよ?友達でしょ?力になってよ。なんでも力になるって前に言ってくれたじゃない。あたしのこと助けて。お願い」

涙を流しながら訴えてくる奈々ちゃんに、わたしはどうしていいかわからなくなりました。
ここで、前みたいに・・・いいよ、と言ってしまえばきっと奈々ちゃんは喜んでくれるだろうし、わたしを解放してくれるでしょう。けれど、過去のことでわたしは思い知ったのです。
そして苦しい状況にいたわたしを救ってくれた玲斗。
その玲斗に黙って、再びお金を貸すことなんてそれこそ裏切り行為としか思えません。
奈々ちゃんが大粒の涙を流すのを見て、なんだかわたしが悪者のように思えてなりませんでした。

「千穂」
「え?」

名前を呼ばれてハッとしました。
この声は。
わたしが顔を上げると、そこには玲斗の姿があるではありませんか。
スーツ姿なので会社帰りか、もしくは家に帰って、わたしの姿がなかったので、そのままでてきたかのどちらかでしょう。

「な、なんでここに・・・」
「先に退勤したくせに家にいなかったからだろ。ケータイのGPSで調べた。」

そうですよ、そうなんです。玲斗はGPS機能でいつでもわたしの居場所を把握しているんでしたよ!
玲斗ってばどれだけ監視するのが好きなんでしょうね。
特に前に元木さんとふたりきりになってしまっていろいろあってから、玲斗の監視は一段とすごくなってますからね。
わたしとしては何かあってもすぐ玲斗が来てくれるので安心なんですけど。
玲斗はめんどくさくないんでしょうか。イチイチ監視なんて。

「ご、ごめんなさい」

とりあえず、わたしは玲斗に謝りました。けれど、玲斗は怖い顔のまま立っています。
思わぬ乱入者に、奈々ちゃんの涙もふと止まったようです。そして玲斗の方に振り返りました。

「え?」

奈々ちゃんは知っているのでしょうか。玲斗のことを。
玲斗は・・・どうなのでしょう。
なんだかまるで修羅場の中にいるような気になってきました。

「あの・・・どういうこと?」

奈々ちゃんはなぜ玲斗がここにいるのかわからない、といった表情をしています。

「小石川営業部長・・・」

奈々ちゃんはボソッとつぶやきました。
あ、やっぱり奈々ちゃんは知っていたのですね。
玲斗が営業部長だったのはもう少し前のことで、今は昇進して役員になっちゃってますが。

「お久しぶりです、司馬奈々さん」

玲斗は抑揚のない口調で挨拶をしました。

「千穂は私の妻なんでね。ここで失礼させていただきますよ」

まるで取引する気のない取引先に言い放つように玲斗は冷たく言ったのです。わたしに対しては旦那様口調、でも、奈々ちゃんに対しては仕事上の口調です。ここまで変わるのもすごいんですけどね。

「千穂、立てよ。さっさと行くぞ」
「ま、待って・・・」

わたしはバッグを掴むと、一瞬だけ奈々ちゃんを見つめました。けれど一体なにが起こったかわからないといった表情でわたしと玲斗を見つめていました。

「ごめんね、奈々ちゃん」

わたしはそういい残して、奈々ちゃんをその場に置き去りにするように玲斗と一緒にカフェを出ました。


   








   



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