実はわたし、結婚してます





花は折りたし、梢は高し





あー、できればここにだけは来たくなかった。
憂鬱だ、憂鬱すぎる。俺は重い腰を上げてようやくたどりついた個人オフィスに目をやる。
ここへ来ることは事前に知らせてはあるが、一応ノックをする。

「どうぞ」

中からは久しぶりに聞く女の声。
俺は一呼吸してから扉を開いた。

「そろそろ来るんじゃないかと思ってたのよ。元気にしてる?」

個人オフィスの主は声も発していない俺をまるで待ちわびていたかのように含みのある笑みを浮かべて回転椅子をくるっと回した。
還暦も間近だというのに40代に間違えられるほどの変わらぬスタイルと美貌の持ち主はまだまだ現役のキャリアウーマンで、海外を飛び回っている。

「最後に会ったのはいつだったかしら?あなたが生まれて初めて頭を下げた記念すべき日だったわよね」

まったく思い出したくもない記憶をペラペラとしゃべりやがって、こうやって俺をからかって楽しまれるからここへくるのはいやなんだ。
しかし、この機会を逃せばまたフラフラと海外へ飛んでいかれてしまう。

「その後どうなの?彼女とはうまくいってる?」

4年前、俺と千穂の婚姻届にサインをしたのは国府田ともうひとり・・・紛れもなく目の前にいるこの女。
千穂を守るためのこの人選は間違ってはいなかった。
いままで誰にも知られずに千穂とふたりだけの結婚生活を送れたのは、この女の力でもあるんではないかと俺は思っている。そういう面では感謝すべき存在なのだ。
仕事人間で、母親らしいことなんて一度もしたことのない女だが、母親としては尊敬できなくても、ひとりの仕事をする女としては尊敬せざるを得ない。

「千穂のことを公にしようと思ってる」
「あら。とうとう覚悟を決めたの?」

覚悟・・・、か。
確かに結婚した時の俺とは違う。

「どうせあなたのことだからいろいろぬかりなく事を進めてるんでしょうね。あなたの子羊ちゃんも大変なことね」

相変わらずごちゃごちゃとうるさい。
なんでもかんでも見透かしたような言い方しやがって。
ほとんど日本にいないくせになんで千穂のことを知ってるのかも謎だ。つーか、俺と千穂のおかれた状況を絶対こいつは楽しんでる。
しかし、この女の協力がなければやはり、いろいろ難しい。

「4年前のあなたでは彼女を守りきることはできなかった。でも今のあなたはそれができる?」
「守ってみせる。ただ、千穂はすぐにふらふら自分の好きなことをやりたがる」
「そりゃそうよ。彼女もひとりの人間だもの。あなたのバッググラウンドを知りながらも、仕事を続け、自分のペースを崩すことなく生活してる。彼女のそういうところを私も気に入ってるの」
「俺のテリトリーから外れたら、千穂が攻撃されるのは目に見えてる」
「そうかもしれないわね。世の中には過去のことを蒸し返したり、ペラペラとありもしない余計なことをしゃべる人間が山ほどいる。特に『この』世界はね」
「だからそのときは・・・」

千穂のことを守ってくれ、と。
俺はもう一度頭を下げるつもりでいた。

「玲斗、あなたわかってないわね」
「なにがだよ」
「女を甘く見ちゃだめよ。少なくとも私の知る限りあなたの大事な千穂ちゃんは、あなたが思ってるいるほど弱くはない」
「・・・」
「それにしてもよほど大切なのね、千穂ちゃんが」
「当たり前だろ。この世で最も失いたくないものだ」
「あなたの口からそんな言葉がでる日がくるなんてね。ママもうれしいわ。もしかしてわたしもおばあちゃんになれる日が近いのかしらね」
ママって何だよママって。しかも際どいことを言いやがって。
「まぁ、せいぜい頑張りなさい。ママはいつだってかわいい息子夫婦の味方よ」

こういう時だけ母親面して本当に勝手な女だ。
まったくそれでもこの母親を頼ってしまうのは、俺はこの人の実力を認めているからだ。
小石川家に嫁いでからも自分の仕事を辞めることなく、好きなように生きてきた女。それでも周囲にその実力を認めさせ、外から嫁いできた普通の女が、いまや小石川家で重要な立場にいる。
悔しいが、今の千穂にこの女のようなことをさせるのは無理だ。
だけど、千穂には千穂らしく生きてほしい。
俺のそばで、俺の隣で笑っていればいいんだ。
そのためなら・・・

俺はこぶしを強く握り締めて、オフィスを後にした。




   









   



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