蒼き月の調べ


波瀾編

第2章



 向かった先のビルの応接室に通され、すぐに馴染みの顔が現れた。
「やあ、和義がひとりでくるなんて珍しいね」
「春樹も相変わらず元気そうでなによりです」
「まあね、なんとかしないと。そちらさんの厚意を無駄にしないためにも、さ」
 仕事の上では決して私情など交えてはいないが、厚意と言えてしまう彼は、常に努力を惜しまない人物であることを和義もよく知っている。藤原春樹――学生時代に知り合った数少ない友人のひとりだ。
「柊弥は相変わらず忙しいんだろうねぇ。たまにパーティなんかで会うけど――ああ、そういえば婚約したんだっけ?相手は女子高生とか」
「ええ。信じられないくらい穏やかになりましたよ」
「へー、あの柊弥がねぇ。今度会ったらからかってみようかな」
「冗談の通じない相手だということはよくご存知では?」
「ははは、確かに。で、今日はどうしたの?和義だってそんなに暇じゃないだろうに」
「尚弥さんと面会したくてね。申し訳ないけれど、プライベートで……勤務時間外だとなかなか捕まらないんですよ、彼」
 まさかこんなところで彼の名前が出るとは思っていなかったのか、春樹は少し驚いたように双眸を丸くする。
「尚弥ね、最近大人しくしてると思っていたんだけど、なんかやらかした?」
 まるで兄か父のような言いように和義はくすりと笑って見せる。
「そういうことではないんですよ。真面目に頑張ってくれているならなによりです」
 和義の普段とは違う言葉の含みに春樹は何かしら気づいたようで、それ以上の詮索はしなかった。
「ま、いいや。じゃあ呼んでくるよ。なんなら早退扱いにするから連れていってもかまわないよ」
「連れ出すとまた上手く逃げられますからね」
「あはははは」
 この会社の若き社長、藤原春樹は笑いながら応接室を出て行った。柊弥が彼の人間性を信用して尚弥を預けた。春樹はもともと尚弥の家庭教師として海棠家に顔を出していた。荒れていた尚弥を立ち直らせたのは間違いなく彼の力だ。
 柊弥の実弟である尚弥は海棠家でも頭を抱える人物のひとりだった。優秀な兄を持つがゆえに、尚弥の葛藤も大きかったのだろうが、暴力や犯罪に近い行為、様々な事件を起こしては柊弥や和義が問題解決に奔走した。まるでかつての自分を見ているようで、腹立たしさを感じながらも放ってはおけなかった。そんなことを思い出していると、目的の人物がきっちりをスーツを着こなした姿で現れる。
 和義はそれを見て口元を緩めた。
 ――人は変わるものだ。
「カズさんが俺に会いたいなんて珍しいね」
「そうですか?」
「うん、最近俺真面目だしさ」
 まるで変わらない親しげな口調に微笑みながらも、これとそれはまた別の話だ、と心を切り替える。
「身に覚えはありませんか?」
「ないって」
「空音さんに会いに来られたでしょう?」
 尚弥は『空音』という名前に反応すると、頭をぽりぽりとかき少しだけ気まずそうな顔をしてみせる。
「兄貴がなんか言ってた?」
「特になにも」
「あいつ、なにもしゃべってないの?」
「ええ、たまたま私が海棠家を訪れた際に、空音さんの様子がおかしかったので屋敷の方に聞いたんです。あなたの来訪については柊弥もすでに知ってはいると思いますが」
「で、カズさんは何しにきたの」
「何を話されたんです?」
 尚弥は一瞬口を噤んだが、しばらくの沈黙の後、観念したように口を開く。
「兄貴と別れてくれって言っただけだよ」
 ぴくり、と和義の眉がつり上がる。
 ――なるほど。それがあの顔の原因か。
「その理由を聞いても?」
「だって信じられないだろ?普通の女子高生がさ、身内を失って玉の輿、まさにシンデレラじゃん。裏が無いはずない。そういうことに関してはカズさんの方が常に疑ってんじゃん。現に、あいつの叔母だって女が俺のとこに電話してきてんだぜ?」
 尚弥はそれについてもすべて和義に話す。空音に告げたことも。
 こういうところが素直なところは変わらずだが、それを聞いて和義は大きくため息をついた。
「いろいろ誤解もあるようですが……また余計なことをしてくれたものだ、というのが正直なところですよ」
 和義は空音の思いつめたような表情を思い出し、どこか心が痛む。自分にもこんな感情が残っていたのだと思うと不思議だった。
「余計かなぁ。カズさんにとってはチャンスなんじゃないの?
「チャンス?」
 怪訝そうに視線を向けると、尚弥はにやりと笑う。
「カズさんだって、あいつの気に入ってるんだろ?女子高生にしちゃ大人びてるし、まぁ確かに美人だよな」
「どうしてそう思うんです?」
 その声はどこか冷めている。
「いや、珍しいじゃん。カズさんて他人にはあまり興味を示さないし、冷酷無慈悲なんて兄貴はよく言われるけど、本当は兄貴よりもカズさんの方がそうだろ?特に女に関しては疑心を持てこそ、優しくなんて絶対しないじゃん」
「空音さんは柊弥の婚約者ですから、怖がらせるわけにはいかないでしょう」
「本当にそれだけ?」
 尚弥は笑っているが鋭い視線を向けてくる。その視線を真正面から受け止めながら、和義はじっと彼を見据える。
 尚弥の指摘は一概に間違っているとはいえない。けれども今、この場で事実を告げる必要はない。
「それだけですよ」
 和義がそれ以上話そうとはしないので、尚弥も諦めたように問い詰めるのはやめた。
「俺には関係のないことだよな。でもさ――」
「村上静子のことでしたら私も調べています。尚弥さんが海棠家の人間だと知ったのは理由もいずれわかるでしょう」
「……わかったよ。俺は余計なことをしないほうがいいんだな」
「物分りがよくなりましたね」
「社会人ですからね」
 お手上げと言う風に、尚弥も丁寧に返す。
「また何かありましたらすぐに私に連絡してください」
「兄貴じゃなくてカズさんに?」
「もちろん、柊弥でもけっこうですよ」
「はいはい」


   



   



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