蒼き月の調べ


波瀾編

第2章



 頭上には雲ひとつない蒼天、すでに夏を思わせる日差しが強く、和義は訪れた病院から外へ一歩出ると思わず眼を細めた。
 自ら申し出て休暇をもらったのはひどく久しぶりな気がした。休みをもらって特にすることはない。ゆえにもっぱら本屋巡りと読書、今は柊弥のかわりに空音のもとを訪れることが主である。おそらく和義は何かしら役目を与えられ、そのことに没頭しているほうが向いているのだろう。そしてそういう性格を柊弥はよくわかっている。
 柊弥の傍で働くようになって後悔をしたことは一度もない。彼の隣で仕事をするのは面白い。もともとライバルで気の合う友人だったからだ。柊弥の秘書といえど、その仕事は多種多様で、海棠家のことにも深く関わっているのが実状だ。これからも今の関係が変わることはないと思っていた――彼女が現れるまでは。
 海棠グループの下で働くことを決めたときにすべての過去を捨てたはずだった。
「あと一件、すませておかないといけませんね」
 ぽつり、零しながら足を速めた。
 ここへ来たときのように駅でタクシーを拾う予定だったが、久しぶりに電車に乗ってみたくなり思わず切符を買った。
 普段ほとんど車で移動しているため、電車に乗るのは何年ぶりだろうという気がした。
 改札をくぐりながら、そう急ぐことでもない、と思い直す。一番の大仕事は終えたのだ。
 なぜここまで自分の車を使わなかったのか、よくわからなかったが、自分の車を運転していれば気が変わってしまうかもしれないとどこかで思っていたのかもしれない。いや、むしろこの場所へきた痕跡を残したくなかった。
 ホームに入ってきた電車のドアが開き、パラパラと降り行く人を見送り、和義は中へと乗り込んだ。空いている座席には座らず、ドアの横に立ったまま外の景色を眺めた。
 高校生、いや中学生の頃だったか、この定位置を確保することをなぜかこだわっていた。さすがにもうそのようなことはないが、なぜか懐かしく感じてそのまま場所は移動せずにいた。
 思えば和義の10代は波瀾に満ちていた。
 両親の離婚と再婚、そして――死。
 施設に入り、その後は海棠家の援助を受けることができた。
 めまぐるしく変わる環境にただ、なるようにしかならないと諦めのようなものを感じながらもそれでも足掻いていたようにも思う。
 ふいに浮かぶ一人の少女。
  どこか憂いた顔を必死で隠そうと笑顔を作る彼女はかつての自分と重なるものがある。
 あの顔の原因は村上静子の存在のせいか、それとも――。
 先日、海棠家を訪れた時の様子を思い出す。
 

「尚弥さんがいらっしゃったようですね」
 海棠家を訪れ、そう声をかけた和義に一瞬向けられた複雑そうな顔を見逃しはしなかった。
「なにかお託でもありましたか?」
「いえ、特に」
 柊弥も峰子もいない日時を狙ってきているあたり、尚弥には何かしらの意図があったのだ。
 けれども空音は口を開かない。
「あの、宮田さん。この前峰子さんにお土産のお菓子をいただいたんです。とってもおいしいので一緒に食べませんか?」
 必死で話を逸らそうとする空音がどこか痛々しく感じられた。
 尚弥は一体何をしにきたのか。
 まさか柊弥の婚約者に失礼な真似だけはしないだろうが、それでも空音の様子が明らかにおかしいのは確かだった。
「尚弥さんとは何か話しましたか?」
「えーっと、世間話とか、です」
「世間話?」
「はい、天気のこととかそれくらいで、みなさんいらっしゃられなかったのですぐにお帰りになったんです」
 それ以上は追求せずにおいた。
 今にも泣きそうな少女を抱きしめる役目は自分ではないからだ。
 和義にできることは、別にある。

 電車を降りるとそこは都会の喧騒だ。たくさんの人が行き交う。電車の煩わしいところはこれだ。人ごみをすり抜けるように進み、大通りへと出た。

   



   



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