蒼き月の調べ


波瀾編

第1章



 翌日、朝食を共にした後、柊弥は自分が家族とほんの数年を過ごした家へ案内した。一応定期的に管理はしているため、見た目には明らかに酷いということはない。が、人が住まなくなった家というのは信じられない速さで老朽していくものなのである。主を失ってしまい住まいとしての役目を果たせずにいるこの家を長年放置してきたのは心のどこかであの懐かしい記憶を消したくなかったのかもしれない、と柊弥は思う。けれども今はもう過去の思い出よりも大切な存在を見つけた。
「こんなに素敵な家を壊してしまうんですか?」
 空音の第一声はそれだった。確かに外装は赤レンガ造りのどこか西洋の建物を思わせるもので、築年数もあってか重厚さは増している。純和風造りの本邸とは正反対といってもいい。
「中へ入ってみようか」
 柊弥は空音の言葉には応えず、中へと招き入れる。柊弥自身も中へ足を踏み入れるのは10数年ぶりだった。家具も何もかもがあの頃のままだった。けれどもどこか重苦しい黴臭いような篭った空気が漂っている。時折空気の入れ替えはしているのだろうが、やはり見えない部分での老朽化は想像以上に進んでいるのだろう。それを空音も感じていたのか少し寂しげな表情を浮かべながら、きょろきょろと部屋を見回している。
「リフォームだとどんなことをするんですか?」
「そうだな……大掛かりなことを行うのであれば梁だけ残してあとはすべて真新しいものにしてしまうだろうが」
「そうですか……」
 それっきり空音は口を噤んでしまった。
 すべての部屋を見終わるまで静かに見つめていた瞳には一体何が映っていたのか、気にしながらも、柊弥もまた記憶を辿るかのように口を閉ざしたまま失われた時を思う。ほんの数年しか過ごしておらずあまり思い出などないように思っていたが、実際に足を踏み入れてみると、どうでもいいようなことをあれもこれも思い出すから不思議だった。
 一時期母親が引き篭っていた部屋もそのままで、この狭い部屋の中で一体何を思い続けていたのか、と今の母親の姿が脳裏を掠める。それを思うとやはりすべてを新しくしてしまいたい。
 建物を出て、庭を歩いていると空音があ、と声をあげた。
「鉄棒があります」
 空音の視線を柊弥も追う。その鉄棒はその場にはあまりにも不釣合いで不自然な場所にぽつんとあった。空音の不思議そうな顔に対し柊弥は微苦笑してみせる。
「子どもの頃、練習をするために頼み込んで作ってもらった」
「柊弥さんが?」
「そうだ」
「もしかして鉄棒が苦手だったんですか?」
 これには無言で答えた。柊弥はなんでも人並み以上にできたが、唯一苦手なものが鉄棒だったのだ。それを知られないために影ながら必死で練習を重ねた。
「柊弥さんが鉄棒……」
「なんだ?」
「いえ、だってとっても意外で。柊弥さんにも苦手なものがあったんですね」
 どこか嬉しそうな空音になぜかホッとする。
「わたしは鉄棒、得意でしたよ」
 得意げにそう言うと次の瞬間、空音は鉄棒を掴んで逆上がりをしてしまった。柊弥にも予想外の事態で、止める暇もなく、あっという間の出来事だった。ひらりと舞い上がるスカートとちらりと見えたスカートの下の色ははっきりと柊弥の瞳に焼き付けられ、柊弥は思わず大きくため息をつく。眉間に指を添えながら、全く気にしていない空音に静かに告げた。
「空音、スカートを履いていることを忘れないでくれ」
「え、あ……」
 今ようやく自分の姿に気づいた空音は鉄棒から飛び降り、真赤に頬を染めた。その姿に苦笑しながらも今この場にいるのが自分だけでよかったと心底思う。
「そろそろ屋敷の方へ戻ろう」
「……はい」


   



   



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