蒼き月の調べ


波瀾編

第1章



 居間へ入るとすでに峰子が座っていた。空音たちがソファに腰をおろすと、この屋敷で執事のようなことをしている松野がお茶を淹れてくれる。何か大事な話でもあるのだろうか、と空音は部屋にいるメンバーを見て思う。こういう状況になるとたいてい柊弥と峰子を峰子を中心とした話し合いが行われる。
「例の件はどうなりましたか?できればすぐにでも工事にとりかかりたいのですが」
 口火を切ったのは柊弥だ。
「ええ、築40年ほどとはいえ、もう何年も人が住んでおりませんからね。改修は必要ですから建てかえるというのなら反対はしませんよ」
 淡々と答える峰子に柊弥は頷いた。
 二人の会話と顔色を伺いながらも、空音には何の話をしているのかさっぱりわからない。自分に関係がなければ同席などさせないので何らかの関係はあるのだろう、と不思議に思い、ちらりと和義の方に視線を向けると、彼はすぐに空音の疑問を理解したのか、そっと囁くように告げる。
「柊弥様と空音さんの新居のお話ですよ」
「新居?」
 思わず大きな声を上げてしまい、空音は一気に注目を浴びた。
「ああ、すまない。空音にはまだ話をしていなかったが、この海棠家の敷地内に新居を建てる予定でいる」
 柊弥の発言にぽかん、とする。新居という言葉があまりにも遠い。
 確かに結婚すれば新築の家を建てる夫婦は多いのだろうが、今空音が住まわせてもらっている屋敷はそもそも柊弥の実家とも言える場所だ。
「ここに住むんじゃないんですか?」
 こんなにも立派で大きな屋敷を出ていくというのだろうか。
「実はこの屋敷も近く改築することになっている。この母屋として使っている屋敷はかなり古く老朽化が進んでいる。何度か補修工事を行ってはいるが、耐震の問題もある。そこで一度大掛かりな工事を行うことがすでに決まっている」
「そうなんですか?」
 確かに歴史ある建物だが、手入れも行き届いており、決して不自由さは感じさせない。
「それにこの建物はあまりにも大きすぎて余っている部屋が幾つもあるだろう。改築後は自立型高齢者施設として開設する予定でいる」
 思いもしていなかった言葉に空音は驚いた。これまで峰子にそういった話を聞いたことがなかったからだ。
 空音が峰子のほうを向くと、峰子はゆったりと微笑む。
「海棠家の家や土地のことはもうすべて柊弥さんにお任せしているのです」
 それならば遠くない未来、その新しい家でみんなで生活することになるのだろうか、と思ったが、そういうわけでもなさそうだった。峰子は新婚時代に亡き夫と暮らしていたという離れの建物に移るようで、これから建てる新築の家は、本当に柊弥と空音、若い夫婦の新居となるという。
 婚約という言葉でさえ遠く感じていて、いまだに実感も沸いていないにも関わらず、今度は新居――様々なことが次々と決められていくことに、なかなか気持ちがついていかない。
 もともと空音は海棠家の居候の身であるのだから、峰子や柊弥が決めたことや、すでに決まっていることなどには従うしかない。それでも、どこか小さな不安を抱えながら、考え込んでいると、柊弥が柔らかい眼差しを向けてきた。
「ここから車で5分ほどの場所に私が幼少時代をすごした家がある。そこを取り壊す予定でいる」
「壊すんですか?」
 それが冒頭の柊弥と峰子の会話につながるのである。もともとある建物を壊し、新しく建て直すというのだ。土地はかなり広いのだが、峰子が住む離れからあまり遠くないないということや、住み込みの使用人たちのこと、そしてなにより日当たりや立地的にもその場所が一番良いのだという。
 やっと理解した空音はどこか淋しい気持ちになる。柊弥が幼少時代をすごした家というのは、両親とともに過ごした家ではないか。
「どちらにせよリフォームは必要だからな。どうせなら新しくしたほうがいいだろう」
「でも、大切な思い出のある家ではないんですか?」
「過ごしたといってもほんの数年のことだ。ほとんどこの屋敷で生活していたから思い出があるというならばこちらのほうだ」
「そうですか…」
 そう聞いてみても空音の気持ちはどこか浮かない。
「あの、その家って見せてもらうことはできないんでしょうか?」
「まだいつでも見られる。明日にでも行ってみよう」
「はい、お願いします」
 そのとき、ふと自分の住んでいた家を思い出した。以前行ってみたときには鍵をもっていなかったので中に入ることはできなかったが、見たところ住んでいた頃と変わらないままだった。誰も住む人間がいなくなった今、あの家はどうなってしまうのだろう、と考え込んだ。そしてそのことを聞いてみてもいいものかどうか迷った。


   



   



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