蒼き月の調べ


波瀾編

第1章



「春子さん、柊弥さんが何時頃お帰りになるかご存知ですか?」
 空音は後ろの座席から助手席に座るボディガードのひとりに尋ねた。彼女は無表情のまま、いえ、と小さく答えるだけで、空音の望んでいるような言葉はかえってこない。
 彼女の名前は市村春子といい、運転中のもうひとりのボディガードは春子の兄で孝一という。ボディガードといえば屈強な男性のイメージがあるが、ふたりは長身であること以外特に目立った特長はない。このふたりの兄妹がどういった経緯で空音のボディガードを務めることになったのかは聞かされていないが、柊弥の命令どおり、感情のひとつも顔に出さず、毎日空音の傍に付き添い警護をしている姿を見れば、かなり信用に足るふたりなのだろうと空音も感じていた。だからこそ空音は毎日一緒に過ごしている二人と仲良くなりたいと思い、あれこれ話しかけてみるが、返ってくるのはそっけない返事のみで、孝一に至っては声を聞いたこともない。
 この日もまともな会話をするという目標を達成できなかった空音は小さくため息をつくと、窓の外を見る。まるでどこかのお嬢様のように扱われる日々に慣れたわけではない。それでも柊弥の言うとおりにしているのは、柊弥の婚約者となった以上勝手な行動をしてはいけない、と思うからだ。
 屋敷に着き、玄関ホールに入ったところで空音の瞳は愛しい人の後姿をとらえた。
「柊弥さん!」
 思わず駆け寄ると、柊弥は和義とともに振り返った。
「空音」
「お帰りなさい、柊弥さん。宮田さんもお疲れ様です」
 二人に温かい眼差しを向けられ、空音の表情には自然と笑みが浮かぶ。
「学校までお迎えにあがろうかとお話していたんですけれどね」
「そうなんですか?」
 けれどもすれ違いにならなかったということはやはり春子と孝一は柊弥の帰りを知っていたということだろう。空音を驚かせるために柊弥が命令していたのか、二人の判断で空音には何も告げなかったのかはわからない。
「部屋へいこう」
 柊弥に促され、居間へと向かいながら学校のことを尋ねられる。この春から音楽科に移った空音の環境は大きく変わった。そのきっかけをつくった柊弥が気にするのは当然のことだが、柊弥は出張でしばらく不在にしていた。昨今、連絡を取る方法は数多溢れているが、空音はそういった媒体を扱うのが極めて苦手だ。
 空音は話したいと思っていたことを次々に思い浮かべるが、何から話していいか迷う。あれもこれも、とにかくいろんなことを話したい。思い巡らせていると、ふと和義が空音の首元に視線を止める。
「リボンの色が変わったのですね」
 そう指摘され、空音ははい、と微笑む。それぞれの学科の生徒を見分けるために月ヶ原学園では制服のリボン、またはネクタイの色で区別している。調理科にいた頃は黄色いリボンをつけていたが、音楽科へ移り、鮮やかな蒼い色のリボンになっている。
「この色、実はとても気に入っているんです」
「よくお似合いですよ」
 和義に褒められなんとなく照れくさい。
「授業の方はどうだ?」
「遅れてる部分もたくさんあるんですけど、甲斐さんのおかげでなんとか頑張れてます」
「そうか」
 幼い頃から英才教育を受けてきたような生徒たちの間にぽんっと入り、簡単に馴染めるものではない。けれども、それは空音の今後の努力次第で変わってくるだろう。
「空音が寂しそうにしている、と甲斐が言っていたから心配していたが」
「え……」
 ずばり言われ、空音はさっきまでの笑みを失い俯いた。なんとか携帯電話の扱いを覚えたのはいいものの、海外に滞在中の柊弥とは時差の関係もあり、思うように連絡を取ることはできなかったのは確かだ。
 寂しい気持ちを精一杯出さないように心がけたつもりだが、甲斐にはあっさりと見抜かれていたようでしっかりと報告されていることになんとも言えない恥ずかしさを感じた。
「甲斐がパソコンを教えると言っていたが、どうだ?」
 空音は首を横に振った。
 空音の反応は予想済みだったのか柊弥は苦笑する。
「楽器は教えなくても扱えるのに、と甲斐も不思議がっていた。まあ得手不得手というものは誰にでもある」
「……呆れてるでしょう?」
 空音が軽く頬を膨らませると、柊弥は和義と顔を見合わせて忍び笑っている。
 どこか呆れられている感が否めないが、こんなやりとりも久しぶりだと思うと、不思議と心は晴れやかになってくる。
 空音は柊弥のスーツの袖をつんと軽く掴む。こうやって傍にいられることが何より嬉しい。優しい眼差しは空音にだけ向けられ、柊弥の大きな手のひらは空音の手を掴んで絡み合う。
「あ、わたし着替えてきたほうがいいですよね」
「少し急ぎの話があるからそのままでいい。お婆様が出かけられる前の方がいいからな」
 そういえば、峰子は今夜出かける予定だと話をしていたことを思い出す。
「今夜は私もここに泊まるから空音の話はあとでゆっくり聞かせてくれ」
「はい!」

   



   



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