蒼き月の調べ


第6章



 陽も落ちて冷え込みも一層厳しくなった頃、友人たちを見送って空音は笑顔で柊弥に振り返った。
「柊弥さん、今日は本当に楽しかったです。こんなに賑やかな誕生日って初めてだったので」
「そうか、ならばよかった」
 空音は少し考えると、どこか興奮気味に何か閃いて瞳を輝かせた。
「柊弥さんのお誕生日にはわたしもなにか……お料理とかしますね!」
「空音が作るのか?」
 柊弥が少々疑心気味に尋ねると、空音は口を尖らせている。
「これでもまだ調理科にいるんですよ!一応基本的なことは学んでるんですから」
「そうか、そうだったな」
 柊弥が口元を緩めるが、空音はまだ恨めしげに柊弥を見つめている。
「空音」
「なんですか」
「少しだけいいか」
 空音の顔色など気にもとめず、柊弥は冷たくなった空音の手をとると、ぎゅっと握った。大きな手の温もりに心まで温められながら首をかしげると、柊弥はその手を繋いだまま歩き始める。向かったのはいつも甲斐とオルガンのレッスンで使っている防音の洋間だ。またピアノでも聴かせてほしいと頼まれるのだろうか、と不思議に思っていると、扉を開けた視線の先にはアンティークと思われる木の円テーブルがあり、その上には白い箱が置いてある。もともと少人数で演奏会を開けるように作られた部屋なのでピアノやオルガンが置いてあってもまだスペースに余裕があるほど広いが、その中央にぽつんと置かれたそれは、あまりにも違和感があった。
「私からのプレゼントだ」
 そう言われ、柊弥が握っていた手を離し、その手を空音の背中に添えると、そっと箱の前へと誘導された。
「これ…」
 空音が柊弥を見上げて言いかけたが、柊弥は何も言わず首を縦に振る。それが開けてみろという意味だと受け取り、空音はゆっくりと手を伸ばした。箱を開けてみると、柔らかいクッションの上に小さな宝石箱のような木箱がひとつ。表面は『街に浮かぶ三日月』のように見える彫刻がなされており、美しくコーティングされている。
「もしかしてオルゴールですか?」
「ああ」
 オルゴール館などでよく見かける形のものだ。売り物としても置いてあるが、こういった類のものはかなり高額で、空音には到底買うことはできない。空音がじっと見惚れていると、柊弥が手にとって、軽く螺子を巻く。高価なものは螺子を巻きすぎては故障の原因となる。再び木のテーブルに置かれ、ゆるやかに流れ始めたオルゴールの音は、空音のよく知る曲だった。音楽を奏でるためにつくられ、楽器の音が美しく響くようにも設計されているこの部屋で、いっそう研ぎ澄まされた音色の1小節が流れた瞬間に、わかった。

 ”蒼き月の調べ”

「これ、どうして…」
 有名な作曲家の曲ではない。むしろまったく世に知られていない曲で、きちんとした楽譜すらない曲である。それを空音が好きなように編曲を重ね弾いていただけのもので、なぜそれがこのような形あるオルゴールから流れるのか。
「甲斐に頼んで譜面にし、それをオルゴールにした。特注のものだからこの世にひとつしかない」
 空音の心を読んでか柊弥が説明する。流れ落ちる優しい旋律に耳を傾けながら、空音は祖父母と過ごした日々を回顧する。結婚することができなかったふたりが再びめぐり会い、そのふたりのもとで家族のように過ごした日々。祖父であるラルスが遠い異国の地で、夜空の月を眺めながら、大切な人を想い作ったという”蒼き月の調べ”。もともとタイトルなどないと言っていたこの曲に、空音がつけた曲名だった。
 こんな風に優しく温かい旋律で奏でられると、いろいろなことを思い出してしまう。笑顔と温もりに満ちた幸福の記憶――それを想うだけで涙が浮かんでくる。
 ――泣かないようにしてきたのに。
 柊弥は静かに見守りながら、ハンカチを空音の頬に当てた。そのハンカチを受けとりながら、空音はまっすぐに柊弥を見上げた。
「前にもここで…柊弥さんの前で泣いてしまったことありましたね」
「そうだな」
「柊弥さんの前だとすぐに泣いてしまって…だめですね」
「そんなことはない」
 考えれば泣いてしまうから、なるべく思い出さないように努めてきた。もう二度と戻ることのできない幸福な時間。失われた時間も命も永遠に戻ることはないのだと、それを思い知らされることが一番哀しい。
「空音、大切な人を想い涙するのは、その人に対する感謝の気持ちが強いからだ。つまり空音はそれだけ愛されていたのだ」
 柊弥の言葉が胸に響く。確かにそうだ。自分を育ててくれたこと、愛してくれたことを本当に感謝している。感謝しているのに、恩返しのひとつもできなかった。
「泣いても翌朝には笑顔になれるのだから、空音のお婆様もお爺様も怒ったりはしない」
「柊弥さん…」
 辛い時でも笑える強さをもちなさい――自分はちゃんとその教えを守れているのだろうか。


 柊弥の腕の中で何度目か流れるオルゴールの音色に酔いしれていると、柊弥がささめく。
「これから、いろいろと忙しくなると思う」
「はい」
「空音も受験生だろう」
「あ、そうでした」
 改めて思い出すと、くすり、と笑われ空音は頬を染めた。
「結婚に向けても話が進んでいくだろう。空音にはあまり負担をかけないようにはするが、なかなかゆっくりと会う時間が取れなくなるかもしれない」
「そうなんですか?」
 思いっきり残念な気持ちを込めて言うと、柊弥は困ったように微苦笑する。
「そういう顔をしないでくれ」
「ご、ごめんなさい。そうですよね、柊弥さん、お仕事もお忙しいし」
 これまでも忙しくしており、頻繁に会うことはなかったため、さらに時間がとれなくなるというのはどれほど多忙になるのだろうかと、素直な気持ちがそのまま表情に表れたようだ。
「なるべく時間を作るようにはするが、とりあえずは空音、携帯電話を使えるようにはなっていてくれ」
「え、あ、はい……」
 和義に携帯電話の使い方を習い、彼がいるときに一度だけ柊弥にかけてみたことはあったが、それ以来一度もかけていない。電話がかかってきたことは何度もあるが、一度は放置したままで気づかず、一度は入浴中で出られず、その他はもたもたしているうちに出られず、というわけで柊弥からの電話には一度も出ることができなかった。
「じゃあ、今からかけてみるか?」
「今から……ですか」
 柊弥の提案に空音は表情を固くする。柊弥が自分の端末を手に握ってみせると、空音もしぶしぶといった風に風に自分の携帯電話を手に取った。
「い、いきますよ」
 同じ部屋にいる相手に電話をかけるなどなんでもないようなことだが、空音は緊張で身体が強張る。本当に機械の操作が苦手なのだ。教えられたとおりゆっくりと操作すると、柊弥の方を見る。
 ほんの一瞬、無言の時が流れ、柊弥は反応のある端末を耳元にあてた。
「もしもし」
 僅かに離れた柊弥の声と、耳元から聞こえてくる声が重なる。
「も、もしもし」
 小さく、震える声で空音も応える。

 オルゴールはすでに動きを止めており、部屋にはふたりのぎこちない、けれども穏やかな声が響いていた――。






婚約編、最後までお読みいただきありがとうございました!
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