蒼き月の調べ


第6章



 空音の紹介が終わると、柊弥は空音を引き連れて海棠家に深い関わりのある人物に挨拶をしてまわる。立食パーティ形式になっているこの会場では各々がすでに様々な思惑を抱きながら動き回っている。
 ――それにしても、誰が何を教えたというわけでもないのに、空音のその控えめな態度といい、立ち振る舞いといい、申し分ない。
 最初に出会った頃にも感じたことだったが、空音がこういった状況に慣れているはずはない。たとえ浜木綿家の血を引いているとしても、彼女はそれを知るはずもなく、また上流階級の人間の集まりに顔を出すこともなかっただろう。
 空音の丁寧で柔らかな振る舞いや、控えめでいて、毅然とした態度はかなり好感を持たれているようだった。更に驚かされたのが、柊弥にとって大事な取引のある人物の何人かと空音が顔なじみであったことだ。峰子が時折空音を連れ歩いているとはいえ、その時に出会ったとは思えない会話を交わしている。柊弥が不思議に思い尋ねると、空音は難なく答える。
「祖母の料亭をお手伝いしていた頃に、お会いしたことがあったんです」
 そういえば、空音の祖母の路緒はかつて料亭を経営していた。浜木綿家の令嬢としてかつては社交界などに顔を出していたであろう彼女なら浜木綿家を離れてからも、それなりに繋がりをもっていたのかもしれない。料亭に馴染みの客として訪れれば自然と空音とも顔を合わすことにはなるのだろうが、しかしながら、それでは空音はどこからか自分が浜木綿家の血をひいているのだと聞いていてもおかしくないはずだ。空音を見る限り、そういうことはない。
 笑顔を浮かべ楽しそうに話をしている姿を見ると、感心を通り越して安堵さえ覚える。柊弥の母はいつも静かに父の後ろをついてまわることしかできなかった。
「なんだか久しぶりにお会いできた方もいて楽しかったです」
「そうか」
「それに甲斐さんのご家族の皆さんは面白い方ばかりですねぇ」
 そんなことを言い出す空音に柊弥は呆気に取られる。代々音楽一家で、少し癖のある人物ばかりの鳳仙家一族を前に面白いと一言で表現してしまうのだから、もはや苦笑するしかない。
 ――とはいえ、心配は大いにある。空音に対し好感をもってくれる者たちばかりではない。今日この場所にいる者たちは海棠家に関わりが深いため、あからさまに嫌がらせなどしてくる人間はいないが、必ず空音の立場を羨み、空音を傷つけようとする人間は現れるはずだ。
「あの、柊弥さん」
「どうした?」
「このドレス、選んでくださったの柊弥さんですよね。会う方々に褒められて嬉しかったです」
 空音が恥ずかしそうに言うので、柊弥はもう一度じっくりと空音の全身を上から下まで眺めた。
 派手なものにせず、シンプルなデザインにしたのは空音の純潔さを前面に出したかったからだ。とはいえ、高校生という若さと可愛らしさを出すためにラベンダーピンクのミディアム丈のドレスにした。そのスカートはレイヤードスタイルになっており、スカーフが何枚も重なっているかのようで、歩くたびに緩やかに揺れている。あえてそのスタイルの良さを強調するようなものにしなかったのは、空音の清楚さを消したくなかった。そういう要望で作らせた一点物のオーダードレスは、お世辞や贔屓目などではなく本当によく似合っている。
「空音のためのドレスだからな」
 そう言ったところで背後の聞き覚えのある声が耳に入る。
「へえ、あれが兄貴の婚約者」
 久しぶりに会う、弟の尚弥だった。傍に近づいてくる尚弥に柊弥は空音の背に手をやり、やんわりと向きを変えさせる。
「尚弥、久しぶりだな」
「そうですね。それより紹介してください」
 自分の兄よりも隣にいる婚約者が気になって仕方がないという様子だ。現に柊弥を見ることもせず空音を観察するように眺めている。丁寧な言葉遣いをしてくるあたり、この場が大事な場所であることは理解しているのだろう。また一騒動起こすのではと、一瞬頭をよぎったがそんな心配はもういらないようだ。
「柊弥さんの弟の尚弥さんでいらっしゃいますか。お初にお目にかかります。杉山空音と申します」
「はじめまして、そんなにかしこまらなくてもいいですよ。女子高生と聞いた時は驚いたけど、お似合いじゃないですか」
「社交辞令が言えるようになったのか」
「一応社会人なんで、もう兄さんに迷惑をかけるようなことはしませんよ」
「そうか」
 どこか棘があるように感じるのは、まだ尚弥が空音を認めていないからだろう。笑みを浮かべ丁寧な態度をとっていはいても、それは尚弥の実態でないことくらい柊弥にはよくわかっている。
「で、どちらでお二人はお会いしたんです?世が世ならご身分の違うお二人が出会われる場所など限られていると思いますが」
 厭味たっぷりこめて言う尚弥に柊弥が答えようとすると、尚弥の真意など気にもとめず空音がにっこりと微笑んで口を開く。
「こちらです」
「こちら?」
「はい。このホテルでお会いしました」
「へえ?」
 まったくもって空音を信用していない尚弥に対し、空音は柊弥の弟である尚弥に対し何の疑いも抱いてはいない。そもそも柊弥は信頼のおけない者を空音に会わせたりはしていないため、空音が信じ込んでも仕方がない。また、前回の婚約の件もあり、柊弥の周りにいる女性は信用するに値しないと尚弥が思い込んでいても仕方がないと、こちらも言える。
 妙な緊張感に包まれている柊弥に比べ、いつの間にか傍にいる甲斐などは興味深そうに眺めている。
「尚弥様、低俗な雑誌の記事を真に受けていらっしゃるのですか?」
 特に表情を変えず、いつもどおりの和義が割って入る。ずっと黙って控えていた男が口を挟むのは空音を気遣ってのことだろう。
「いや、あれはやりすぎだろうとは思ってましたが、火の無い所に煙は立たないとも言うので、一応ね」
「いろんな偶然が重なったんです」
 空音は一歩尚弥に近づいて真っ直ぐに顔を上げるとそう言った。
「人と人の出会いって不思議ですね。いろんな偶然が重なって、わたしは海棠家のお世話になっています。そのおかげで柊弥さんと親しくなることもできました。わたしがピアノを弾かなければ、わたしが調理科の生徒としてホテルに職業体験に行かなければ、そして、わたしの祖母が亡くなってしなければ、わたしはきっとここには立っていなかったと思うんです。親しくなるきっかけがなにかと問われると、音楽かな、とわたしは思います」
 空音が確認するように柊弥を見たので、柊弥ははっきりと頷いた。それを見てホッとしたように笑みを浮かべると、再び空音は尚弥に向き合う。
「――わたし、とても尚弥さんにお会いしたかったんです。柊弥さんがとても気にかけていらしたので。ですから今日こうしてお会いできてとても嬉しいです」
 決して強い口調ではなく、いつもの穏やかな話し方だが、そこに込められているものには芯の強さがある。そして空音が話すことはすべて真実である。柊弥は空音を見下ろした。尚弥が暗に込めている疑心に気づいているようには思えない。
 少しだけ圧倒されたように見えた尚弥だが、すぐに表情を元に戻すと柊弥の顔を見た。無言の時間が一瞬置かれ、再び尚弥は社交用の笑みを作る。
「またお会いしましょう」
 それだけ言い残すと、さっさと会場を後にした。
 柊弥はその姿を見送りながら小さくため息をつく。手のかかるばかりだった弟が、スーツを着こなして今日この場所へ現れたのは、空音を実際に見るためであったのだろう。彼は彼なりに兄を心配しているのかもしれない。そう思うと自然と苦笑が漏れた。


   




   



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