蒼き月の調べ


第5章



「――で、峰子様は正臣氏に何をおっしゃったのでしょうね。赤字決済の続いている事業の売却、縮小、最低限の資金で残りを立て直すことを全面的に受け入れたようです。全く、こちらだけでなく峰子様からも資金援助を受けていたとは知りませんでしたが。その大金は一体どこへ消えていったのやら」
「そうだな…」
 和義がため息混じりにつぶやくと柊弥も同意する。
 正臣はあれ以来、身を潜めている。柊弥の援助の打ち切りもあっさりと受け入れた。これまでの態度からは考えられないほど大人しい。
 峰子が正臣に何を話したのか、柊弥は一切聞かされてはいない。正臣を正式に海棠家の養子としたのは峰子だということは知っていたが、その峰子とも関係はあまり良くないことくらい誰でもわかる。峰子は一体どうやって正臣を説得したのだろうか。
「高田栄子のほうはどうだ?」
 高田栄子に弁解の機会を与えるため、会社に呼びつけ事情を聞いたのはつい最近のことだ。柊弥の目の前に現れた栄子は目を真っ赤に腫らし、涙ながらに頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。正臣様に協力すれば父の会社を立て直せると言われて信じてしまったのです」
 調べてみたところ栄子はかつて柊弥が資金援助を打ち切った会社の令嬢だった。柊弥に恨みのひとつも持っていたのかもしれない。
 ひたすら涙を流しながら頭を下げる栄子に、柊弥は呆れを通り越して憐れみさえ覚えた。涙を見せれば男なら誰でも思い通りになるとでも思っているのだろうか。
 自らが一体何をし、どのような結果を招くことになるのか、わからないはずがない。秘書としたからにはそれなりに優秀だからだ。
「私を誘惑しようとしたのも正臣氏の命令か?」
「――いいえ、それは…私の勝手な個人的な事情です」
「そうか」
 柊弥は辞職するか、それとも減給、降格処分を受け入れて社内にとどまりたいかを彼女に選ばせた。栄子は迷わず、残ることを選んだ。
 ――やはり。
 何か他に目的があるのかもしれない。
「柊弥様のもとで働かせていただけるのであれば、どのような処分もお受けします。今回の汚名を晴らすためにも一生懸命働かせていただきます」
 真っ赤になってそう応える栄子に、本当に女とは怖いものだ、と思わずにはいられなかった。

「総務のほうで普通に出勤しているようですよ」
「そうか。何か動きがあればすぐに教えてくれ」
「わかりました。しかし、彼女は一体何がしたかったのでしょうね」
「さて……」
「まさか、彼女に同情してるとか?」
「あのな…」
「冗談ですよ。あーいう女性には何度も悩まされてきましたからね」
 あんなことを平然と言いながら、正臣に何度も抱かれていたのだ。たとえ強要されていたとしても本気で嫌ならばどうにでもできたはずだ。そもそも彼女の直属の上司は柊弥だったのだから。
 これまでにも正臣から内偵を送り込まれてきたことはある。内偵でなくとも、柊弥に近づきスキャンダルを狙っていた報道関係者の女もいた。ただ単純に海棠家のバックグラウンドに惹かれただけの女や、柊弥の容姿に憧れていただけの女もいたが、とにもかくにも女とは嫉妬や恨みなど感情的になると何をしでかすかわからない。
 ただ、高田栄子は元社長令嬢だ。それなりに教養もあればしたたかさもある。基本的に秘書といっても和義以外に柊弥のプライベートを知ることはできない。仕事内容も限定され、秘書室のパソコンもセキュリティーがかかっている。それなのに、彼女は空音の存在を知り、空音を連れ去ることができたのである。
「空音にボディガードをつける」
「――まあ、それが無難でしょうね。ご本人は嫌がるかもしれませんが」
「仕方ない。また空音を利用されては困る」
「正式にあなたの婚約者ともなれば警護の者がいてもおかしくありませんよ」


   




   



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