蒼き月の調べ


第5章



 ふと思い出したように柊弥が顔を上げ空音に問う。
「空音、携帯の番号を聞いておいてもいいか?」
「携帯?って携帯電話ですか?」
「ああ。連絡を取るのに知っておきたいのだが」
「もってないですよ」
 当たり前のようにそう言う空音に、峰子は持たせてやっていなかったのか、と思う。
「じゃあ、ひとつもたせるから――」
「だめです」
 柊弥の言葉を最後まで言わせず、空音が両手をぶんぶんと振ってものすごい勢いで拒否をする。
「わたし、全く扱えないんです。機械とかぜーんぶ」
「いや、機械というか、電話をかけたり受けたりするくらいなら誰でもできるだろう」
「わたしは出来ないんです」
「……」
 あまりの空音のきっぱりとした言い方に柊弥は絶句する。いまどき携帯の端末をもっていない人間がいるどころか、扱えない人間がいたとは。
「では今まではどうしていたのだ」
「家の電話ですよ。受話器をとることはできますよ!」
 自信満々に言うが、それほど自慢することではない。
 それからテレビのリモコンをはじめ、エアコンや洗濯機までもが全く使えないということを聞かされ、柊弥はもはや頭を抱えずにはいられなかった。機械音痴の人間がいるとは聞いたことがあったが、ここまでの人間がいることに心底驚いた。
「空音は調理師を目指していたのだろう?オーブンや電子レンジを使うこともあっただろう?」
「はい。でも先生が触っちゃだめだっていうので、誰かがいつもやってくれていました」
「そうか」
 先生が触らせないとは、一体何をやらかしたんだろう、と一瞬疑問がわいたが考えるのはやめにした。
 しかし、そうなると携帯でのやりとりは不可能ということだ。空音を婚約者にしたとはいえ、実生活の中でこれまでと違うことは何もない。柊弥は相変わらず忙しく、毎日家に帰ることもできず、たまに帰ってきても、空音は学校か、音楽のレッスンを受けているか、すでに寝ているか、と完全にすれ違い生活なのである。
 空音の気持ちを最優先に、強引なことはしないと決めてはいたものの、ここまでのすれ違い生活に、話もできないとなるとかなり辛いものがある。
 今日はたまたま休日に帰ってくることができ、こうやって共に時間を過ごすことができているが、この時間も長く続くわけではない。まもなく峰子も帰ってくるだろう。
 少しでも距離を縮めていきたいがなかなか思うようにいかないのが現実だ。
 ――これでは本当に名ばかりの婚約になってしまう。
 そんな焦燥感にかられる柊弥だが、目の前の空音にとってみればそれほど大きな問題でもないのだろう。
「柊弥さん、この問題この公式を使うと……」
「ああ、それはこっちの公式を使えばいい」
 高校生の空音にとってみれば、目の前にある期末試験の方が重要なのである。
 年齢の差、世代の差、というものがこういうところで表れてしまうのはわかっていたことだが、高校生など随分と昔のことになってしまった柊弥にとってみればやはり空音はまだまだ若いのだと思わずにはいられない。
「こういう文章の問題はなにかしら書いておけば点数がいくらかつくはずだ。答えが出なくても途中まで計算式を記入すればいい」
「そうなんですか?」
「ああ。先生は何も言わないのか?」
「言ってたかもしれないんですけど、数学の先生はしゃべるのが速くって…」
「なるほど…」
 柊弥も、もともと要点しか話さず、さっさと会話を終了させてしまうところがあるが、空音の前ではなるべくわかりやすくゆっくり話すように心がけている。多数の生徒相手に授業をおこなうからには、先生がひとりのために時間を費やすことはできない。しかも調理科ならばそれほど本腰を入れて勉強する科目でもないだろう。
「まあ、音楽科の3年に入れば数学はなくなるだろう?」
「授業数は減りますけど、一応あるみたいです。国語と外国語と数学は必修です」
「そうか。受験対策かな」
「はい」
「空音は理数系が苦手か。――わかりやすいな」
「だって…」
「誰にでも得手不得手はあるものだ」
「でも、柊弥さんはなんでもできたって、宮田さんがおっしゃってましたよ」
「そうでもないと思うが、苦手なものを苦手なように見せない努力はしていたな」
「そうなんですか?」
 頷いて、ふと苦手だった鉄棒を必死で練習したことを思い出した。柊弥は逆上がりができなかったのだ。しかし、できないと言われることも、そういう目で見られることもプライドが許さなかった柊弥は、体育の授業で鉄棒をやるまでに、とにかく人知れず練習したのである。
「わたしも苦手意識ばっかりもってちゃダメですよね」
 はーっと大きくため息をつく空音を見ながら、柊弥は口を開く。
「空音は今のままでも十分魅力があるのだから、気にしなくてもいい」
 思ったことをそのまま言葉にしてまい、空音の頬が真っ赤に染まる。その姿がまた愛らしく、この微妙な距離がもどかしくてしかたがない。
 どうにか、なんとかして空音と過ごす時間を増やしたい、もっと関係を親密にしていきたい、というのが柊弥の正直な気持ちであった。しかしながら今抱えているものを疎かにもできない。
 ――さて、どうすべきか。

   




   



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