蒼き月の調べ


第4章



 空音が退院して、海棠家に戻ると、峰子が温かく迎えてくれた。いろんな事情をすべて知っているだろうけれど、特に何かを言うでもなく空音の無事を心から喜んでくれたのだった。
 退院したとはいえ、まだ学校へ登校することを許されていない空音は、私室となっている和室で楽典を広げてながめていた。空音の身の世話をしてくれている女性が柊弥の来訪を告げてきたのはその時だった。
「あの、入ってもらって大丈夫です」
 と言って、その姿を待つと、柊弥は笑みひとつない仏頂面で入ってきた。どことなく怒っているように感じられたが空音は丁寧に挨拶をする。
「空音、そんなに簡単に男を自室に招き入れるものではない」
 いつになく厳しい口調に空音は、え、と不思議そうな顔をする。
「でも、ここは柊弥さんのおうちですよ?」
 空音にしてみれば自分の方が居候の身である。
「そうであっても、ここは空音の部屋だろう」
 柊弥の言っている意味がいまいちのみこめない空音は尚も不思議そうに首を傾けた。
「何か間違いでもあったらどうするんだ」
「間違い?」
 誰かが部屋を間違えるかもしれない、ということを言っているのだろうか?と空音はもう一度尋ねようとしたところで、何かが唇に触れた。触れたのは一瞬でごく軽いものだったが、それが柊弥の唇であることに空音はしばらく気づけずにいた。
「こういうことだ」
 空音は呆然としていた。何が起こったのか理解できなかった。柊弥にとってみればたいしたことなどないのだろう。けれども空音にとってみれば一瞬のこととはいえ、それは紛れもなくファーストキスだった。
「わかったか」
「……わかりません!!」
 思わず声をあげた空音に、柊弥は少しばかり驚いた。空音がこんな風に感情を露わにするのは珍しいことだった。
「どうして部屋に招きいれたらキスすることになるんですか!」
 思わぬ反論に柊弥もなぜかムキになる。
「男とはそういう生き物だからだ」
「柊弥さんも?」
「そうだ」
「じゃあ、柊弥さんは部屋で女の人と二人きりになったらだれかれかまわずキスするんですか?」
「そういうわけではない」
「じゃあどういうわけですか」
 柊弥はひとつため息をついた。
「好きな女が目の前にいればキスのひとつくらいしたくなるだろう」
 え、と空音は双眸を見開いた。
「好きな女、って」
「ここにいる」
 呆気にとられたまま空音の身体は抱き寄せられた。驚きはしたものの、そうされたことは嫌ではなくむしろ温もりを感じられて安心感に包まれた。以前柊弥の胸の中で泣きじゃくったこともあったのだとぼんやりと考えた。
 ―――あれ?
 空音はその腕から抜け出すかのように顔を上げた。
「わたし?」
「ここにいるのは空音だけだと思うが」
「でも、わたし…高校生で、柊弥さんにとってみれば子どもです」
「そうだな。自分でも信じられないことを言っていると思うが、事実だから仕方ない」
 柊弥は空音の身体を軽く抱きしめたまま静かに語り始める。
「確かに、私は結婚しないと決めた。それは結婚というものに何のメリットも感じなかったからだ。それに愛する女性と結婚すれば、その女性に海棠家の重い責任を背負わせることになる。私も祖母も空音にそのような責任を負わせるようなことはしたくない。私の結婚とは自分の気持ちだけでできることではないからな」
「はい……」
「だから、自分でも驚いた」
「え?」
「空音を婚約者にしようなどと、自分の口から出たのが今でも信じられない。別に軽い気持ちで言ったわけではない。ただ単純に空音を最も安全に自分の傍で守れる方法がそれだった――空音」
「はい」
 と返事しながら、信じられない気持ちで柊弥の言葉を聞いていた。
「空音がまだ婚約や結婚と言う言葉にピンとこないのもわかる。結婚に対しても良いイメージはないんだろう。しかし、この家にいる以上、今回のようなトラブルに巻き込まれることがある。祖母の力を借りれば簡単に片付くことかもしれない。空音自身誰かに守られるというのは気分の良いものではないだろう。けれど私は自分の手で空音を守りたい。結婚とは責任や重荷ばかりだと思っていたが、愛する女性を一番身近で守ることができることでもあることに気づいた。利己的かもしれないが、今度空音に何かあれば私は自分を許すことができない」
 柊弥の声が少しだけ震えているように思えたのは気のせいだろうか。
「空音――どうか、私と婚約してほしい」
「―――はい」
 なぜかすんなりと頷いて、空音自身が一番驚いた。けれど、あまりにも真摯なその柊弥の言葉に心を動かされない女性がいるだろうか。
 柊弥の両腕に優しく包まれながら、空音はその温もりに安らぎを得る。嫌ではない。高鳴る鼓動が柊弥に聞こえてしまいそうだったが、そんなことは柊弥もわかっているのだろう。
「ありがとう」
 柊弥は空音の頭をすとんと自分の胸に押し付け、少しだけ力を強めて抱きしめた。無言の時間が流れて、思わず空音は口を開く。
「い、いつまでこうしてるんですか?」
「空音が嫌だというまで」
 さらりと言われて、空音はどう応えていいかわからなくなった。ずっとこうしていたような気持ちだったが、それを素直に伝えるのも恥ずかしい。けれども嫌だと言うこともできない。
「じゃあ、もう少しだけ、このままがいいです」
「わかった」
 空音が柊弥の顔を見上げると、柊弥が微笑んでいた。その笑みを見て再び柊弥の胸に顔を埋めた。

 ――この気持ちは一体なんだろう。

   




   



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