蒼き月の調べ


第4章



 海棠家の本邸にて峰子と話をした後、柊弥はいろいろな思いを抱えながら病院へと向かった。出迎えたのは柊弥の変わりにずっと空音に付き添っていた秘書の和義だった。
「空音は?」
「今は昼食を召し上がっていらっしゃいますよ」
「そうか」
「少し…よろしいですか」
「どうした」
「高田栄子と正臣氏はやはりつながっていたようです」
 高田栄子は空音が行方不明になったあの日から完全に姿を消したままだった。無断欠勤が続き携帯に連絡をしても繋がらない。
「あの女は一体なにが目的なんだ」
「さて、他に裏で操っている人物がいるのかもしれませんし、まぁしばらくは見張っていたほうがよろしいでしょうね」
「そうだな。女は演技が上手い。怖いものだ」
 苦笑紛れに柊弥がつぶやくと、和義がすました顔をして言う。
「あなたの姫君も女性ですよ。いきなり豹変されるやも」
 その言葉にふたりの脳裏には空音の笑顔が浮かぶ。一瞬、微妙な空気が流れ、お互いに目を見合わせたところで、柊弥が口を開く。
「……想像できない」
「私もです」
 和義も同意するように深く頷いてみせた。
「お前が言い出したんだろう」
「言ってみたものの全く想像できませんでした」
「だな。空音に豹変されたら私もお前も見る目がなかったということだな」
「そうですね――ああ、そうだ、その空音さんですが、一応フォローしておきましたけど、後はご自分でなんとかなさってくださいよ」
「なにをだ」
「婚約のことです」
 言われて、柊弥は仏頂面のまま空音の病室へと向かった。
 空音は柊弥の姿を認めると、すぐに視線を逸らし、俯いた。その姿に少々傷つきながらも柊弥は表情を崩すことなく空音の傍まできて椅子に座った。
「体調はどうだ?」
「あの、もう大丈夫です」
 それだけ答えると、無言の時間が流れる。これまで会話のない時間は何度もあったが、この日だけは気まずい雰囲気が漂っている。柊弥は次の言葉を探してみるが、気の利いた言葉がなかなか浮かんでこない。そもそもひとりの女性にこうやって真剣に向き合ったことが一度もないのである。あれこれ思い悩んでいると、空音が何かを決心したように顔を上げた。
「あの、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げるその姿に、柊弥はさらに罪悪感に押しつぶされそうになる。
「空音には何の責任もない。私が空音の気持ちを無視して勝手なことをしたのだから」
「でも、柊弥さんにホテルから出てはいけないと言われていたのに、抜け出してしまったから」
「よく……抜け出せたな」
「え?」
「一応、警護の者を置いていたはずなんだが」
「えっと、それは見つからないように…あ、職務怠慢とかで辞めさせたりしないでください!」
 柊弥との関わりの中で、空音もなんとなく柊弥がどういう人物かわかってきたのだろう、必死な顔を向けてきた。
「まあ、空音に免じて今回は無罪放免にしておこう」
「良かった」
 心底ホッとしている空音を見て、やはり柊弥は空音への特別な感情を認めざるをえなかった。しかしながら、今この状況で伝えるべきことでもないと分かっている。
「海棠家の問題に巻き込んですまなかった」
「いえ、宮田さんから少しお聞きしました。伯父様のことも」
「伯父に、何かされてはいないか?」
「されてはいないです。――柊弥さん、伯父さんの会社を潰そうとしているんですか?」
「その話をしたのか、あの人は」
「本当なんですか?」
「別に潰すつもりはない。ただ、伯父の関連会社はここ数年すべて赤字経営が続いている」
「赤字……」
「そのために資金援助を続けてきた。経営方法など新たな策も提案した。だが、伯父はそれを素直に受け取るような人物ではない。空音、綺麗ごとや理想だけでは経営はできない」
 正臣は理想高き男でもあったが、資金が他の場所に流れている証拠も掴んでいた。しかし、それを空音に告げるつもりはないし、空音が知るべきことでもないだろう。
「私のもとにも多くの社員や従業員がいる。彼らは常に最高の働きをしてくれている。彼らが頑張ってくれたものが利益となり、海棠家を支えている。それを私は彼らに還元したいが、そういった利益は今、伯父のもとへ流れている」
 空音は静かに頷いた。
「与えるばかりが支援ではない――と私は思う」
 それは柊弥の本音でもあった。心を入れ替え、努力をしてもらいたかった。他ならぬ祖父の築きあげてきたものをそのまま受け継いだのだから。けれどもその期待はこのような結果を招いてしまった。柊弥にはもう同情の余地など持ち得ない。
 こうやって赤字経営の続いている企業への資金援助をいくつも打ち切ってきた。時に非情と呼ばれ、冷酷な人間だと罵られたこともあった。それでも、柊弥は自分の守るべきもののためにそうしてきたのだ。
「柊弥さんは、たくさんの人の生活を背負っているんですね……」
 なにげなくつぶやいたであろう空音の言葉に柊弥はハッとする。自分の決断の裏にある苦しみを誰かに理解されようと思ったことは一度もない。そしてまだ社会人にもならない空音にそれを望んでいるわけでもなかった。
「だから、ですか?柊弥さんが結婚は望んでいないっていうことをお聞きしました。柊弥さんの責任があまりにも重過ぎるから、そう思ったんですか?」
「空音……」
 真剣な眼差しが柊弥の心を照らす。
 たぶん、峰子が言ったことも、空音が言っていることも間違いではないのだ。これだという明確な理由はない。いろんなことを考えてみると結局のところ結婚というものに何のメリットもないという結果に至る。ふいに過去、結婚しようとした女の言葉が蘇る。別に愛していたわけでも、好みの女だったわけでもない。ただ相手もそれなりの家の令嬢で金目当てではないということ、立場的に結婚していれば周囲からそういった話がなくなるだろうという思いからだった。相手の女も同じだった。結婚しても自由に過ごしたい。交友関係には口を出さない、これまでと同じ安定した生活を約束をすることで合意しただけのことだった。
「メリットがあったから結婚しようと思っただけ。けれども少しでも危うい未来があるんじゃあ、リスクを背負うようなことはしないわ」
 柊弥の両親の現実を知るなり、そう言い残し去っていった女。
 幸せになれない結婚。責任を負わなければならない結婚。家族に負担しか与えない結婚、気を使わなければならない結婚。
 自分が今抱えているものはあまりにも大きい。それ以上抱えることが、可能なのか。――結婚とはなんなのか。幸せになるとはどういうことなのか…そういったことをもはや考えるまでもなかった。結婚しなければいいのだから。
「わたしを婚約者にしたら、柊弥さんが困るんじゃないですか?」
 そうだ――今、自分がしようとしたことはなんなのだ。
 柊弥は初めて自分の中の矛盾に気づいた。結婚などしないと思いながらも、空音を婚約者にし、別に結婚することになってもかまわないとさえ思っている。
「空音、その話は退院してからにしよう」
「でも」
「私は困ったりはしない。ただ空音の心を傷つけたことを申し訳なく思うだけだ」
 愛おしい。
 そう、愛おしいと感じる。
 その感情が何を示すのか、柊弥自身気づいていたはずだった。気づかぬふりはもうできない。
 ぽかんと見つめ返してくる清らかな瞳を前に、柊弥はゆっくりと微笑んだ。

 ――愛している。この少女を。

   




   



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