蒼き月の調べ


第4章



 空音が目を覚ますと、そこには宮田和義の姿があった。
「お気づきになられましたか」
 心地よい、どこか懐かしいような優しい声が空音の胸に響く。
「先ほどまで柊弥も一緒だったのですけどね。外せないミーティングがありまして」
 柊弥、という名前にびくり、と反応する。
「わたし…」
「40度を超えるほどの熱がございまして、ずっとお眠りになっていたのですよ」
「え……」
 空音は思わず驚いて、起き上がろうとしたが、身体がずんっと重たいような気がした。和義に支えられながら身体を起こすと、肩からショールのようなものをかけてもらう。
「ありがとございます」
「柊弥が随分と落ち込んでいましたよ。自分のせいでこうなってしまったのだ、と」
「そんな、柊弥さんのせいではないです」
 と言いながらも、空音はどこか柊弥に対して後ろめたいような、複雑な感情を隠しきれずにいた。それに気づいてか和義は苦笑する。
「そうですか?」
「はい……。あの、わたし…男の人の、柊弥さんの伯父様の家にいたはずなんですけど」
「ええ、そうです。お迎えにあがったときに空音さんが熱で倒れてしまわれたので、そのまま病院にお連れしたんです」
「じゃあ、ここは病院ですか?」
「そうですよ」
「なんだかたくさんご迷惑をおかけしました」
「空音さんが気になさることはありませんよ」
 そう言われても、やはり空音が逃げ出してしまったことでこうなってしまったのだと思わずにはいられない。
「柊弥が婚約だなんてとんでもないことを言い出してさぞ驚かれたことでしょう」
 まるで空音の心を読んだかのように和義が切り出す。そのとおりではあったが、はい、とは答えられず空音は俯いた。
「柊弥はあまり自分の考えを他人に話したり相談したりしないところがあって、まあ私もいろいろと振り回されるんですよ」
「宮田さんが、ですか?」
 柊弥と和義の関係を見ている限り、お互い信頼しあい、言葉がなくても意思疎通がしっかりできているように感じていた空音は少し驚いた。
「当たり前です。あんなに無口でわけのわからない男の相手は大変なんですよ」
 いたずらっぽく笑う和義に、ふたりの間には信頼関係を超えた何かがあるようだった。
「宮田さんは柊弥さんとは長いお付き合いなんですか?」
「ええ、まあ…初めてお会いしたのは小学生の頃でしたので、それから考えると長い付き合いになりますね」
「小学生」
「成績も、スポーツも常にトップ争いをしていました」
 懐かしそうにそう言う和義の顔は笑っている。
「ライバルで、友人でした。でも、中学のときです。私は家族を失いました」
「え?」
「空音さんと同じように、身内のすべてを失ったのです。柊弥から海棠家で一緒に暮らそうなんていう話をされたこともありましたが、もちろん断りました。思春期だったこともあり、誰か他人の世話になるなど考えられず、まあプライドもあったんでしょう。なにより柊弥の情けをもらうことが嫌だったんです。施設に入り、成績が良かったことからとりあえず高校まで行かせてもらいましたが、高校で随分荒れました」
 空音は真剣に和義の言葉に耳を傾けた。これまで和義とは親しく会話をしてきたけれど、こんなふうに彼の生い立ちを聞いたのはこれが初めてだった。
「そんなとき、警察沙汰になるような事件がおこりまして、その時は相手側に非があったんですが、相手が政治家の息子かなにかで、結果的に両親や守ってくれるような大人のいない私が全面的に罪をかぶることになったんですよ」
「そんな」
「まあ仕方ないでしょう。それまでの素行も悪かったですし、自業自得です。ですが、その時柊弥に…いや正確には柊弥の祖父、純一郎様に助けていただいたんです」
「峰子さんの亡くなった旦那様ですね?」
「ええ、小学生の頃、度々海棠家に遊びに行っていたときに目をかけてもらっていたようで。そして頼まれたんですよ。柊弥の傍にいって見張っていてくれ、ってね」
「見張る?」
「その頃、柊弥はアメリカに留学していて、アメリカの大学へ進学することも決まっていたんです。そのことが心配でお目付け役を探していた、とおっしゃっていましたが、そんなのは口実です。私にも大学へ通い、それなりの教養を身につけるチャンスを与えてもらったのです」
「それで、……おふたりはとても仲が良いんですね」
「仲が良いですか?」
「はい、そう見えます」
「これでも喧嘩ばかりしていたんですよ。最近はお互い大人になってそれも減りましたけどね――まあ、そういうわけである程度柊弥の考えも読めるようにはなってきたというところです」
 空音が黙って頷くと、和義も頷いた。
「空音さん、海棠家は多くの問題を抱えているのです。そのひとつが後継者問題で、空音さんがお会いした正臣氏は以前より柊弥と敵対しているのです」
「伯父様なのに、ですか?」
「正臣氏と柊弥様の父親である純弥様は確かにご兄弟ですが、母親が違います。正臣氏はいわゆる愛人の子どもなのですよ。それゆえに複雑な感情をお持ちなのでしょうね」
「そうなんですか」
 だからだろうか、軽々しく空音に愛人にならないかと言っていたのは。
「空音さんは柊弥がお嫌いですか?」
「え」
 思わぬ問いに、空音は戸惑うように和義を見返した。和義は柊弥の秘書としてではなく、彼の友人としてそう尋ねてきたように感じた。
「嫌いじゃないです。たくさんお世話になって、お話をするのも楽しいし、尊敬もしています」
「それだけですか?」
「わからないんです、自分でもよく」
 それが空音の正直な気持ちだった。
「空音さんはまだお若いから、婚約だとか結婚という話はまだ遠いものに感じられて驚かれるのも無理はありません」
「はい…」
 和義の言うとおりだ。高校生の空音にとって結婚とはまだ遠いものだった。そもそも恋愛感情というものがどういうものかもわからない。愛し合って結婚するとか、夫婦になるということは自分とはまるで関係のない遠い世界のように感じている。確かに、高校生ともなれば、回りにはカップルが出来上がっていたりするが、空音自身がそんな風に誰か男の人とお付き合いをするということは考えられなかった。
 それに――空音の記憶の中に、結婚はしない、と決めた自分がいるのだ。どこで何が起こってそんな風に思ったのかは覚えていない。ただ、結婚はしないと誓ったことだけは覚えている。だからなのだろう。突然柊弥から婚約の話が出て動揺してしまったことは確かだった。
「柊弥もね、結婚はしないと常々言っていまして、だから今回のことがあって、迷わず空音さんを婚約者になさろうとしたことに私も驚いたんですよ」
 苦笑しながらそう話す和義を、空音はじっと見つめた。
 ――結婚はしない。
 心に同じ気持ちを抱えていたことに驚きを隠せない。
「別に海棠家のことだけを考えるのであれば、婚約などせずとも他に対処のしようはあったはず。けれども、柊弥は空音さんの安全や、未来のことまで考えてそうしたのです。柊弥と噂のあった女性ともなればすぐに誰かが調べ上げるでしょう。しかも今回の記事の書かれ方は酷いものでしたからね。そうなれば空音さんの学校にも報道陣は行くでしょうし、あなたの行く先々に待ち受けていることもありえます。興味本位で近づくものもいるでしょう。それくらい柊弥は有名なんですよ。それにあの容姿でしょう?玉の輿を狙っている女性など山ほどいます。その女性たちの嫉妬や恨みを向けられることもあるかもしれません。それらの危険からあなたの身を守るには、柊弥と空音さんが特別な関係であることを公にしておくのがいいと、柊弥は考えたのでしょう。空音さんが海棠家にとって特別な人物であれば、周囲は好き勝手にはできません。海棠グループがスポンサーになっている企業は多い。海棠家を敵に回すようなことをする者はまずいないでしょうからね」
「でも、そんなことをしたら、柊弥さんが困るんじゃないですか?」
「どうしてです?」
「結婚はしないと言っている柊弥さんの気持ちはどうなるんですか?」
 空音の言葉は予想外のものだったのか、和義は少し驚いたような顔をした。けれどもすぐに柔ら中表情に戻り、空音に言った。
「それは柊弥に直接聞いてみてください」
 そう、和義が言ったときだった。
「お邪魔していいかな」
 ひょっこり顔を出したのは鳳仙甲斐だ。
「甲斐先生」
 空音は嬉しそうに頬を緩めた。けれどもすぐに申し訳なさそうに甲斐を迎えた。
「相変わらず突然現れる方ですね」
「いやだなー、俺は毎日のように空音ちゃんのレッスンしてるんだよ、ねえ?」
 呆れ顔の和義の言葉に同意を求めるように甲斐は空音を見た。
「はい」
 空音は少し困ったように笑う。体調を崩したせいで、せっかく時間を割いてくれている甲斐にも迷惑をかけてしまったのだ。
「でも、元気そうでよかった。随分熱が高いと聞いていたから心配していたんだよ」
「もう、大丈夫です」
「無理はしないでね、レッスンは様子をみて退院してから再開しよう」
「はい、ありがとうございます」
 空音は丁寧に頭をさげた。

   




   



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