蒼き月の調べ


第4章



「久しぶりですね、こうやってお会いするのは」
 人払いをし、完全にふたりきりになったところで、峰子はどこか彼女に畏怖を感じているような正臣に向き合った。
 パーティなどで顔を合わせることはあっても、正臣が成人してからこうやってふたりきりで話をするのは初めてだ。数十年、それほど長い年月がながれている。
「正臣さんは海棠家をどうなさりたいのです?」
「どう、とは意味がわかりませんね、お義母様」
 正臣は視線を逸らすように誰もいなくなったドアを見つめた。その瞳は一体何を見ていたのだろうか。
「血のつながりのない私を母などと思ったことは一度もないのでしょう。無理なさらずともよいのです。あなたがなさりたいのは海棠家の財産をすべてを受け継ぐことでしょうか、それとも海棠家のすべてを壊してしまうことでしょうか?」
「まさか、そのどちらもノーですよ」
「ですが、今回あなたがなさろうとしたことは確実に柊弥さんを陥れることでしょう?ひとつ間違えば大きな問題となることくらいあなたにもわかるでしょう」
「私は真実を話したまで。それを面白おかしく書きたてたのは記者のほうです。そんなおおげさな話になるとは夢にも思いませんでしたよ」
「そうですか」
「それに、そんなたわいもない噂話で海棠家が築きあげてきたものが瓦解するとは思えませんがね」
 正臣の真意が見えず、峰子はひとつため息をついた。いや、真意など当にわかっている。ただ彼にどう言えばいいか、ここまできても迷うのだ。
「純一郎さんはあなたの欲しいものは与えたものと思っていましたが」
「欲しいもの?つぶれかけた会社や無能な社員を欲しがったとでも?ただいらなくなったものを押し付けただけでしょう」
 投げ捨てるようにそう言った正臣の言葉に、峰子は驚きを隠せなかった。
「本気でおっしゃっているの?」
 純一郎が正臣に引き継がせたものは、すべて彼が精一杯力を注いできた事業ばかりだ。傍で手腕を見てきた正臣だからこそ、受け継いでいけると思ったからこその人選だった。それを正臣自身よくわかっていると峰子は思っていた。一方で海外生活の長かった自分の息子、純弥に海外事業を任せたのは決して欲目からではなく誰もが認める当然の人選だったはずだ。正臣とて反対の声をあげたりはしなかった。ただ、純弥は自ら、家族のために事業を縮小していくことになったが、その選択を峰子は何も言わず受け入れた。――ゆえに父から受け継ぐものなどない孫の柊弥が与えられたのは海棠家という名前だけだった。その名前だけで新しい事業を次々に立ち上げ、いまや20代の若き青年実業家として名をはせている。
「確かに、あなたは不満に思って当然なのでしょう。海棠家の名を継ぎ、総帥となったのは私の息子、純弥です。しかも今はそれも名ばかり、ほとんどは柊弥が支えているのが実態ですからね。けれど、柊弥は何の努力もなしに与えられたものを守っているわけではありませんよ。純弥もそれをわかっているからこそ、柊弥を信頼しすべてを任せているのです」
「私には任せられないと?妾腹ですからね」
「それは違います。正臣さん、純一郎さんがあなたに遺したものは何も会社だけではないでしょう。あなたが自由に運用できる資金も公平に分配されているはずです。その資金をもとに新たな事業を立ち上げることもできたでしょう。あなたが柊弥を憎む理由が私にはわからないのです。私や純弥ならまだしも、柊弥はあなたに支援こそすれ、憎まれるようなことはなにひとつしていないはずです。私にはあなたが海棠家のすべてを憎んでいるようにしか見えないのです」
「身寄りのない私を引き入れてくださった海棠家と、あなたには感謝していますよ。かような話をするためにわざわざいらっしゃったのですか」
「いいえ。今後一切、杉山空音さんに関わること、彼女に関する噂を世の中に流すようなことをなさらぬよう、申し上げにきたのです」
「あの娘はただの一般人でしょう。噂になったとしても一時的なものですよ。どうしてそこまでこだわるのです」
 峰子は強い眼差しを正臣に向けた。それ以上口を開くことは許さないといった視線に、正臣は少し身体をびくりとさせた。
「才能ある若い女性の未来を壊すようなことをする人物に、海棠家を任せることなどできません」
 ピシャっと言い放った強い口調の言葉の裏には威厳のようなものがある。黙り込んだ正臣をじっと見据えて、峰子は続ける。
「あなたが本当につぶれかけた会社を受け継いだと思ったのなら拒否なされば良かっただけのことです。いつだって売却なりなんなりできたでしょう。わざわざ私や柊弥から資金援助など受けずともあなたは好きなようにできたはずです。それをなさらなかったのはなぜですか。純一郎さんが一生懸命築きあげてきたものだから、あなたは手放すことができずにいた、そう思ったからこそ私は援助を続けてきたのです。けれどもそれももう終わりにするしかありません。私がなすべきことは純一郎さんの遺したものを守ることではありません。海棠家の名を守ることです。正臣さん、これだけは覚えておきなさい。私は海棠家の名前を守るためならあなたをこの家から追い出すことだってできるのです」
「ははは、今更脅しですか?」
 峰子は一度瞑目すると静かに自らのバッグに手をかけ、封筒を取り出した。そして黙ったまま、それを正臣に手渡した。――これを手渡す日が来ないこと、それだけを願っていた。けれども、もうそれはできない。
「この真実をあたなに告げたくはありませんでしたよ」
 峰子はそう言い残すと踵をかえし、静かに部屋を出た。

   




   



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