蒼き月の調べ


第4章



 正臣の邸宅は都心の高級住宅街にある。すでに月は高い位置から柊弥を見下ろしていた。屋敷に到着し、ボディガードを伴って尋ねると、使用人たちはひたすらに頭を下げて申し訳ありませんとだけ言う。
「正臣様の私室にはどなたも入れぬようにと申し付かっております」
 おどおどとした声でそう告げる使用人のひとりを、柊弥はこれでもかという冷淡な目で見下ろす。
「ここに16歳くらいの少女がいるはずだ。彼女に何かあったらお前たちもただではすまさない」
 そう冷たく言い放つと、何人かがびくっと動く。柊弥は後ろに控えていたボディガードに目で合図を送ると、そのうちの二人が前をふさぐ使用人たちを強引に退け、柊弥を通す。そのまま勢いに任せて正臣の私室へまっすぐに踏み込むと、倒れた空音の上に覆いかぶさるようにしている正臣の姿が目に入った。
「貴様…」
 柊弥が睨みつけると、正臣はいきなり現れた柊弥とその集団に動揺したのか、「なにもしていない…」と言葉を発しながら後ずさる。それを見て、倒れこんだままの空音のもとに駆け寄る。
「空音……」
 制服ごしに伝わる熱に柊弥は気を失っている空音を抱き上げる。
「空音!聞こえるか、空音!」
 手のひらを額にやると―――熱い。肩で荒い息をする空音の頬も紅く腫れている。熱がある、そしてこの頬の腫れは殴られた痕だろうか。
「熱があるようですね」
 同じように近寄ってきた和義が冷静に言葉を発する。
「すぐに病院へ連れていく」
「はい」
 頷くよりも先に和義の身体はすでに部屋の外へと向かっている。
 柊弥は空音を抱いたまま立ち上がると、侮蔑をこめて正臣を見た。なんとか冷静さを保ちながら、怒りを抑えた柊弥の低い声が部屋に響く。
「私の存在が気に入らないのなら直接私に何かをすればよいだけです」
「―――そ、その娘は一体なんなのだ」
 どこか威圧され、年下の柊弥に怯えた風を見せる正臣はなんとか威厳を保とうとしているようだった。
「婚約者だと、そう言いました」
「信じられるわけがないだろう」
「誤解されているようですが、空音は海棠家にはなんら関係などなかったのです。それをあなたが巻き込んだ」
「海棠家本邸に住まわせていれば、怪しく思うのも当然だろう」
 その時、ざわ、と人の動きがあったのをふたりは感じた。と、同時に現れたのは、第一線からは退いてはいるものの今も尚強い影響力を持つ、海棠峰子だった。

「私が空音さんの後見人ですから、空音さんが私のお屋敷にお住まいになるのはなんら不思議なことではありませんよ」
「お婆様」
「柊弥さん、空音さんは熱がおありなのでしょう。急いでお医者様に診せなさい。和義さんがお待ちですよ」
 強い口調でそう言われ、柊弥は口を噤んだ。空音を抱えたまま一礼するとすぐさまその場を後にした。

 静かな車内に、空音の荒い息だけが響き渡る。細くしなやかな身体があまりにも弱々しく感じ、柊弥は思わず両腕に力をこめた。
 ―――こんなことになるとは。
 あらゆることを想定しなかったわけではない。空音が戸惑うのも無理はない。それをわかっていながら空音の心を無視したのは柊弥だ。
  季節の変わり目であまり体調も良くなかったのかもしれない。いや、そんなことではないだろう。夏からずっと空音は緊張していたのだ。峰子とは長く親しくしていたとはいえ、他人同士が一緒に暮らして気を使わないはずがない。ましてやごく普通の家庭で育っている空音が海棠家の生活に慣れるのも大変だったはずだ。そもそも祖母の死をそう簡単に受け入れていたわけでもないだろう。明るい笑顔の裏で苦しみを抱えていたに違いない。
 そう考えながら、空音が声をあげて泣いた日のことを思い出した。あの時抱きしめた華奢な身体の感触が今もここにある。あまりにも頼りなく、弱々しい身体。まだ16歳なのだ。見た目はしっかりしていて、大人びた外見をしていても、柊弥は何度もそのあどけない表情を見た。幼い部分があることを知ったのではなかったか。

 夜間救急で診察を行った医師は和義から状況の説明を受け、頷きながら看護師にあれこれと指示をし、細い腕に点滴を打った。
「口の中が少し切れていますが、大事はないでしょう。それと熱は関係ありませんが、高熱ですので今夜は入院して様子を見ましょう」
 医者の言葉に力なく頷く。
 相変わらず全身で荒い息をしている空音の顔は青白い。それは柊弥の母親を思わせるような色白さで、思わずその場を逃げ出したいような気持ちになった。
 空音を傷つけるつもりはなかった。けれども結果的にひどく傷つけてしまうことになった――そんな後悔と罪悪感だけが柊弥の心を大きく占めていた。

   




   



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