蒼き月の調べ


第3章



 穏やかに秋が過ぎようとしていた頃、柊弥の耳にとんでもない情報が入り込んできた。
 会議を終えてオフィスに戻ってきた柊弥に和義はすいと雑誌を差し出す。
「明日発売の週刊誌です」
 そう言って見せられたページの大きな見出しに、柊弥はかなり不快感を露わにした。明らかに悪意をもって書かれた柊弥に関する醜聞の記事である。
「なぜ止められなかった?」
 海棠家の力をもって週刊誌の記事などどうにでもなる。現にこれまでも何度も記事を潰してきた。ありもしないくだらない記事を書かれ事業に影響させるわけにはいかないからだ。
 しかも、この日ぎりぎりまで和義や柊弥の耳に入らない、というのはあまりにもおかしい。
「どうやらこの記事には海棠家の人間が関わっているようです」
 その言葉に柊弥にはある人物の顔が浮かぶ。峰子が海外に滞在であるこの時期を狙ったのであれば十中八九あの男に間違いはない――海棠正臣、柊弥の伯父だ。
「お婆様から連絡は?」
「まだございませんが、すぐに伝わるでしょうから、なんらかの行動はありますでしょう」
「そうか。さんざん巻き込むなと言われていたからさぞお怒りになるだろうな」
「そうでしょうね。で、どうします」
 柊弥が放り投げるようにデスクにたたきつけた週刊誌に和義は改めて視線を落とす。
 見開き4ページに渡るその内容は、海棠家時期総帥と言われる男、海棠柊弥の女性スキャンダル記事。相手は他ならぬ――空音だった。
 しかし、その内容はありもしないいい加減なものばかり。よくもこれだけのことが妄想で書けるものだと、柊弥ですら感心する。しかし、実際に空音を連れまわしていたことは事実である。空音の実名などは伏せられているが、調べればすぐにわかるだろう。
 こういうとき、顔が公になっていることが仇となる。柊弥は若き実業家としても名高い。ゆえに時折、テレビの討論番組や特集番組に経営者として出演することもあった。独身であることと端整な容姿も手伝って、かなり注目度が高く、女性たちからはここぞとばかりに玉の輿を狙うように電話番号やメールアドレスを書いたメモを渡される。
 しかし、柊弥には自分のことよりも空音のことが気がかりだった。海棠家の屋敷にいる以上危害はないだろうが、空音は高校生だ。月ヶ原学園は芸能人も通っておりそれなりに警備もしっかりしている学園ではあるが、一歩外に出れば空音を守るものは何もない。海棠家からはそれほど遠くないと言ってもひとりで電車に乗り通学しているわけで、その道中何もないとは言えなかった。
「車を準備しろ。空音を迎えに行く」
「了解。私は明日の会見の準備を」
「頼む」


 現在峰子は海外の知人の元を訪れている。海棠家内には使用人たちや警護の者たちはいるが、空音をひとりあの場所に置いておくことはできないと思われた。
 柊弥は空音を連れて海棠家を離れ、ホテルメロディアーナに移動した。本来なら屋敷の方が安全なのだろうが、郊外にある屋敷よりは都心のホテルの方が移動しやすい。しかもホテルにはピアノやオルガンも置いてあって空音のレッスンに影響することもない。というのは口実のようなもので、柊弥は単に祖蘭を自分の目の届く場所に置いておきたかった。
「どうかしたんですか?」
 約束もしていないのに、いきなり学校に現れ、攫うようにして連れられてきた空音は不思議そうに柊弥に尋ねた。
「しばらくホテルで暮らしてもらう」
「しばらく、って峰子さんがお帰りになるまでですか?」
「そうだ」
「わたしなら大丈夫ですよ」
「明日から学校も休んでもらう。甲斐にはホテルのほうに来るように伝えてあるから、そちらのほうは問題ないだろう」
「え?」
 なにがなんやらと混乱状態の空音に、柊弥は事実を話すべきかどうか迷った。あの卑猥な記事を空音に知らせるべきではないと思う反面、いつかは学校やその他の場所で目にすることになるのだろうと思うと、自分の口から告げたいとも考える。
「私の立場をよく思わない者がいて、空音を巻き込んでしまった」
「どういうことですか?」
「明日発売の週刊誌に私と空音のことが書かれてある」
「え?」
 きょとんとした顔で空音は尚も柊弥を見つめていた。すべて話さないと納得できないような顔をしている。それはそうだろう。いきなりホテルに住めと言われたり、学校を休めと言われて、はいそうですか。と素直に従う者などいない。柊弥はひとつため息をつくと仕方ないという風に一冊の雑誌を空音に手渡す。
 空音はその記事を読んで目を見開いた。
「若紫?源氏物語の紫の上、ですか?」
 空音の視線の先には顔こそ隠してあるものの『イケメン実業家が育てる若紫』という記述とともに荒い画像の空音の写真が載っている。明らかに源氏物語の若紫とかぶせ、イケメン実業家が実は身寄りのない少女を自分好みの愛人に育てているという内容がつらつらと綴られている。
「ああ――暗に空音のことを言ってるんだろう」
「どうしてこんな……」
「私を陥れたい人間は多いだろうからな。空音の名前は明かされていないが、情報社会だ……すぐに知れるだろう。しばらく外に出ないほうがいい」
「しばらくってどれくらいですか?」
「騒ぎが収まるまでだ」
「そんな。それじゃあずっとホテルにいなければいけないんですか?」
「長くはかからない。明日雑誌の発売とともに会見を開く」
「会見?」
 柊弥は空音の顔を見る。そして頭の片隅で考えていたことをふいに口にする。
「そこで空音が私の婚約者だと発表する」
 いきなりの聞きなれない言葉に空音は思わずぽかんとする。
 柊弥としてもそれは選択肢のひとつではあったが、まさかこんなにさらりと口から出てくるとは思っていなかった。
「婚約者?」
「そうだ」
「どうしてわたしが柊弥さんの婚約者になるんですか?」
 心底理解できないという表情で空音は柊弥に向きあう。
「この記事は私のイメージを汚すために書かれたものだ。それに空音が利用された。この先空音のことも面白おかしく書き立てられないとも限らない」
「だからどうしてそれが婚約することと関係があるんですか?」
 珍しく口調を強める空音に柊弥の表情も自然と厳しいものとなる。
「空音が私の婚約者ならば不埒な噂も一掃される。空音のことを調べまわる者もいなくなる。ありもしない噂話を書いて海棠家を敵に回すようなことはしないだろうかならな」
 正臣が柊弥を陥れるためにこのようなことをしたのなら、これを逆に利用すればいいだけのことだ。空音が正当な妻として迎えられる存在とあれば、若き愛人などと言うものもいなくなるだろう。むしろ一般家庭に育った空音と柊弥のロマンスを作り上げることができる。かつて柊弥の父と母がそう騒がれたように。シンデレラストーリーを作り上ればいいだけのこと――たぶんこの記事を見たときから柊弥はそれを考えていた。
 未来の海棠家の妻となれば、興味本位で手を出すようなものはいないだろう。それだけの権力を海棠家はもっている。
 幸いなことに空音は未成年であり、高校生。空音を公の場に出さない理由としては十分である。
「騒動がすぎれば婚約などすぐに解消できる。それだけのことだ」
 黙りこんでしまった空音に静かに言い放つ。そのどこか冷めた言いように空音は初めて少し怯えるような視線を柊弥に向けた。いや、怯えと言うよりは不信に近いものだったのかもしれない。けれど、柊弥はその視線を完全に無視をした。

   




   



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