蒼き月の調べ


第3章



 ホテルに戻って少し遅めの食事を取る。空音はまだ興奮気味だった。そもそも生でオーケストラの演奏を鑑賞するのも初めてのことで、その中にオルガン交響曲が含まれていたのだからなおさら空音の感動もひとしおというもの。
「とっても素敵でした」
 何度目か同じ言葉を発する空音に柊弥の顔も自然と穏やかになる。
「でも、わたしがご一緒で本当に良かったんですか?なんだかわたし、いつも与えてもらうばかりですね」
「空音は未成年なのだから、気にする必要はない。成人すればいやおうなく自立せねばならないのだから。それに空音に見てもらいたいと思ったから連れて行った。興味があるだろうと思ったからな」
「はい、それはもちろん」
「興味のない者を連れていってもチケットが無駄になるだけだ。今日あのオケで演奏していたトランペット奏者のひとりは、私の知り合いだ。かなり有名な奏者になったにも関わらず、いまだにこうしてチケットを送ってくれる」
「そうなんですか?」
「彼は高校で吹奏楽部にいた。その演奏を見たのがきっかけだったな」
「もしかして柊弥さんが?」
「ああ、音大へ行く気はないかと誘った」
 以前に柊弥が才能ある学生の支援も行っているという話をしていたのを空音は思い出す。
「私は確かに若い人材を支援している。けれども別にそれは見返りを求めてやっていることではない。大学へ行く資金援助をしても返してもらうつもりもない。ただ、そうやって知り合った者たちとのつながりがもてるということは私にとっても海棠家にとっても決してマイナスにはならない」
「どういうことですか?」
「たとえば、空音がそれなりのパイプオルガンの奏者になったとする。海棠家のパーティで一曲なりと演奏してもらえればそれだけで私は空音に支援したかいがあったと思うだろう。そういうことだ」
「よく――わかりません」
「そうだな。そういう意味では全く見返りを求めない、というのは間違いか。海棠家のパーティにはいろんな業界の有名な人物が来ることがある。その中で音楽業界の人間に空音の演奏が気に入られれば、私はまたその世界の人間とつながりがもてる可能性が出てくるということだ。私が投資し、会社を起業した人物もいる。今はまだ小さな会社で取引内容も微々たるものだが、そのうち伸びてくるだろうと私は思っている。私は彼らから色んな形で恩返しをしてもらっていることになる」
「でも、わたしはそんなに大層な人間にはなれないと思います」
「空音は私の見る目が間違っていると思うのか」
「いえ、そういうわけではないんですけど…でもきっと柊弥さんが満足できるような恩返しはできないような気がします」
「言っただろう?見返りは求めない。結果的に私は彼らからいろんなものを得ているが、最初からそれを期待していたわけではない。それに空音からはすでに恩返しをしてもらっているがな」
「え?」
「私は今の空音の演奏を聞くだけで安らぎになっている。それで十分だ。空音はやりたいことをやりたいように学べばそれでいい」
 会うたびに饒舌になっていく柊弥の言葉に空音はいつもドキドキしてしまう。柊弥にとってみれば空音も支援している人間の中のひとりで、決して特別というわけではないのだろう。それなのに、見つめてくる瞳があまりにも真摯で、とても優しいのだ。
「あ、あの、柊弥さん」
「どうした?」
 空音は恥ずかしさのあまり、ふいに昨日和義と話をしていたことを思い出し、鞄を取り出した。そしてあるものを取り外すと、自分の顔の横に並べるように持ち上げ、言ってみた。
「これって、わたしに似てます?」
「……」
 柊弥を笑わせる方法を尋ねたときに和義が教えてくれたものだった。
 空音の学生鞄につけている小さなぬいぐるみである。友人の夕海が空音に似ているから思わず買ってしまったと言って誕生日にくれたものだ。ウサギのようなネコのようなよくわからないぬいぐるみだ。
 一瞬目を丸くさせた柊弥だったが、次の瞬間には笑みを見せた。声を上げて笑う、というにはほど遠かったが、その笑顔は今までのどの笑みよりも一番笑っているように感じられて、空音は思わず見惚れてしまいそうになった。
「いきなり何を言い出すかと思ったら」
「だって、柊弥さんはあまり笑わないから、昨日宮田さんに聞いてみたんです」
「和義に?」
「はい、どうしたら笑ってくれるでしょうか、ってそしたら……」
「なるほど」
 くっくっと忍び笑う姿も空音は初めて見た。
「そういえば、空音と最初に会話をしたときも言われたな」
「笑わないのはお仕事のことが理由ですか?」
「そうだな。仕事でへらへら笑ってばかりはいられない」
「そう……ですよね」
 甲斐の言うとおりなのだろう、と思う。柊弥がホテルのオーナーだということくらいしか知らなかったが、和義や甲斐の話を聞いていると、柊弥は他にもいろいろな事業を手がけているらしかった。会社経営から、農園の経営まで、社長業をこなしている。国内にいくつかあるホテルメロディアーナの総支配人――つまりはオーナーというのはその中のひとつの立場にすぎないのだという。そうすればかなりの従業員や社員を抱え、時には非情な決断を下さなければならないこともあるのだろう、と空音にも想像できる。
 そういった事業のことは知らないが、経営のことなら少しはわかっているつもりだった。祖母が料亭を営んでいた頃、空音もよく手伝いに店に顔を出していた。祖母が病を患い、店を続けられなくなったとき、そこで働いてくれた人たちは解雇するしかなかったのだ。それぞれに家族があり、生活があったことだろう。それを思うと空音は居た堪れなくなったが、あの時の空音にはどうすることもできなかった。あんなに小さな店でさえそうなのだから、柊弥の抱えるものの大きさを考えると、どんなにか重たいものを背負っているのだろう、と柊弥の険しい顔を見るたびに思うのだった。

   




   



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