蒼き月の調べ


第3章


 正臣が腕の力を緩めると、女はするりとその場所から抜け出した。乱れたブラウスのボタンをはめ、太ももが露わになるまで捲りあげられたスカートを元に戻す。
 淫楽の後の姿を眺めるのもまた一興だと言わんばかりの正臣の衣服は大して乱れてはいない。この場所の情事で正臣がそれを決して許さないからだ。しかし相手になる女はされるがまま。それがここの暗黙のルールであった。
 高層ビルのかなり高い場所に位置するフロアの一室、広いその空間には大きなデスクと椅子、そして飾り棚がいくつも置いてあり、そこには煌びやかな装飾の置物が幾つも並んでいる。上の方には有名な画家のサイン入りの絵が飾ってあった。
「正臣様」
 と身づくろいを正した女が正臣を呼んだ。きりりと表情を引き締めた女は伊達めがねをつけると、先ほどまでの妖艶な空気を一掃する。それを見て正臣はふ、と含みのある笑みを浮かべると椅子に腰掛けたままくるりと椅子を回転させ窓の外を眺めた。
「さすがのお前も難儀しているようだな」
「もうしばらくお時間をいただければ……」
「別にあの男を落とす必要はない。それ相応のスキャンダルさえ掴めればいいのだからな」
「かしこまりました」
 女は丁寧に頭をさげ、踵を返す。何事もなかったかのように部屋を出て行くのを見送ると、正臣はにやりと笑った。
 自分の上に跨り、声をかみ殺しながら、その快楽を委ねていた女の感触がまだ残っている。
 ―――あの女は捨て難い。

 正臣はしばらくして、自分の秘書である、町村さやかを呼んだ。セミロングの髪を縦ロールにし、大きな目をぱちくりとさせながら入ってきたさやかは、入ってくるなり、先ほどの女は誰かと尋ねてきた。拗ねたような口ぶりに正臣は頬をゆるめ、さやかを抱き寄せ膝に座らせた。
「彼女はただのスパイみたいなものだ」
「スパイ?」
「ああ、柊弥を探らせている」
「やだぁ、正臣さんてばまた悪いこと考えているのね」
「海棠家で力を得るために必要なことだ。お前もその方が嬉しいだろう?」
「正臣さんが偉くなるなるということ?それはもちろん嬉しいわ」
 23歳になったばかりのさやかはいつでも正臣に忠実で愛らしい。私立大学を出て就職先がないため夜の街で働いていたのを正臣が拾い、秘書にした。女は男に対してどうあるべきかをわかっていてそのように振舞うのがまた正臣が気に入っている理由のひとつだった。
 ただ、身体の相性でいうならば、先ほどの女の方が合うと言えるのだろう。だからこそ、僅かな時間であっても関係を求めたくなるのだった。
「その柊弥さんは相変わらず仕事人間なんでしょ?」
「そのようだな。しかし最近自宅の屋敷に戻ることが多くなったらしい。あそこには忌まわしいばーさんしかいないはずだが」
「峰子様?」
「ああ」
「峰子様の体調が思わしくないとか?」
「どうかな、あのばーさんが大人しく死ぬとは思えないが。それが本当ならこれが好機になるか」
 あの女がいる限り、自分は愛妾の子のままだ。得るはずだったすべてのものは与えられず、そしてそれは永久に与えられることはない。正臣の母は最期まで正妻になれず、愛人として傍にあり続けることも許されず生涯を終えた。海棠家の血をひいているというだけで、正臣だけは認知され、海棠家の一員になれはしたものの、正妻の峰子からしてみれば面白くはないだろう。
 本来ならば、正臣が海棠家の長男として生まれ、すべてを引き継ぐはずだったのだ。それを家柄が相応しくないという理由だけで、自分たちは疎外され、父の純一郎はあっさりと峰子と結婚した。その後峰子が長男を出産し、落ち着くべきところに落ち着いたわけだったが、海棠家の長男として生まれた純弥は現在海外事業を主に請け負っており、ほとんど海外暮らしだ。そういう体裁をとっているが、純弥の妻が精神病を患っていて、海外で療養中であることなど周知の事実。どう考えても正臣の方が引き継ぐには相応しい。
 しかしながら、純弥の息子、正臣にとっては甥にもあたる柊弥は、幼い頃より海棠家のトップに立つべく教育を受け、20代という若さながらも海棠家におけるほとんどの実権を握っているといっても過言ではない。
「忌まわしい限りだ」
 正臣はぽつりとつぶやくと抱き寄せたさやかの愛らしいピンク色の唇に、自分の唇を押し付けた。しゃぶりつくように舐めまわし、激しく舌を絡めあう。零れるさやかの吐息に一度はおさまったはずの欲情が再びわきあがる。お世辞にも若いとはいえないだろうが、まだまだ衰えていない自分に正臣は悦に入る。
「だめ……」
 そう声を上げながらも、すでに身体は正臣を求めているさやかに、密かに物足りなさを感じてはいたが、今、正臣の性欲を満たせる女はさやかしかいない。再びこの部屋に妖艶な空気が漂う中、窓の外は太陽がゆっくりと沈みかけ、燃えるように赤い空がどこまでも広がっていた。


   




   



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