蒼き月の調べ

第2章



 峰子の屋敷で生活を始めてからほどなくして新学期が始まった。
 空音はもともと就職するつもりでいたのだが、担任の須山と峰子には進学することを強くすすめられて、新学期早々悩ましい顔で登校する羽目になってしまった。
 2年のこの時期にはすでに進路調査も行われ、3年のクラス替えに影響する。調理科にいれば基本的にクラスに変更はないが、進学希望の生徒は普通科などに転科することも可能である。しかし人数の調整もあり、必ずしも希望通りになるとは限らない。
「空音、なんか憂鬱そうね」
 席に着くなり、ため息をつく友人の姿を見て夕海はそう声をかけた。
 そもそも高校の調理科では進学する生徒は少ない。たとえ進学するとしても、専門学校が主で、大学へ進学希望する生徒は一人か二人いるかいないかである。
「なんか進学しろと言われて」
「は?」
 空音の戸惑いを含む声に夕海も目をぱちくりとさせた。
「誰に言われたの」
「須山先生と、今お世話になっている人」
「なんでまた今頃」
「うーん、もともとおばあちゃんにも進学するように言われてはいたんだけど」
 その選択はあまり考えなかった。
 その唯一の祖母が亡くなったというからには進学という選択肢は消え去ったはずなのだ。それなのに、これはどうしたことだろう。
「おばあさんのことは残念だったね……」
 夕海は微かに目を伏せた。
「あ、うん。でもどこかで覚悟は決めていたから」
 空音はそう言葉にして、ふいにたったひとり置いていかれた事実を改めて感じる。けれど、置いていかれたのはこれが初めてではない。
 いつも、空音は置いていかれるのだ―――まるでそう運命(さだめ)られているかのように
 最初は父がいなくなった。暴力を奮って怒鳴り声しか記憶のない父だった。散々母を泣かせたあげく、いつの間にかいなくなっていて、気づいたら姓が変わり両親が離婚したことを知った。
 その次は母。シングルマザーとなった母は朝も夜も働いた。おそらくは父が抱えた借金も返済しなければならなかったのだろう、と今では想像がつく。いつも疲れ果てた笑みを向けられて、その顔はどんどんやつれていった。最期は過労死だと伝えられた。
 そして血のつながりのあるドイツ人の優しい祖父がなくなったと聞かされ―――最後に祖母が逝った。
「空音はやりたいことってないの?」
「やりたいこと?」
「将来の夢、とかそういうの。あまり聞いたことないから」
 夕海にそう言われ、ふと夏の間少しだけ働いたホテルのオーナーの言葉を思い出した。
 ―――音大に行く気はないか
 彼は確かにそう空音に聞いた。
 空音にとって音大というのは学費や授業料が高いという意識がある。実際はどうか知らないが、経済的な面から考えてもやはり大学へ行く選択肢は考えられなかった、というのが正直なところだ。しかも空音が学びたいのは一般的なオルガンやピアノではない。ましてやオーケストラで演奏されるような楽器でもないのである。
「興味が、あるものならあるんだけど」
ぽつり、と空音が零すと、夕海はなに?と言って首をかしげた。
「パイプオルガン」
「へえ、素敵。空音オルガンとかピアノ弾くの上手だものね」
「音が、好きなの」
「じゃあ、音大とかになるね。でも調理科からそれは難しそうだね」
 うん、とつぶやいてから、もしかしてと頭をよぎった。
 ホテルオーナーに音大に行く気はないか、と問われ、音大の講師をしているという鳳仙甲斐という人物に出会わせてもらったのはとんでもなく幸運なことではなかったのか、と思う。
 後見人を引き受けてくれた峰子によると、空音の祖母はかなりの財産を残してくれているらしく、その中には私立大学の授業料も含めたもので、空音がどのような人生の選択をしても困ることがないように、とのことだった。
 いつも慎ましやかに、質素な暮らしをしていた祖母がどこにそんな大金を貯めていたのか、空音には想像もつかなかったが、そこにこめられた祖母の愛情は感じ取ることができた。
 ここにきて、初めて、空音は自分が歩むべき進路について揺れ始めていた。
 その日の放課後、帰宅しようと校舎を出た空音の目に飛び込んできたのは、校門の傍に止まった黒塗りの高級車。どこかで見たことのある人物が降りて、空音のもとへゆっくりと歩いてきたのは、他でもない、ホテルメロディアーナのオーナー海棠柊弥その人であった。


   




   



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