蒼き月の調べ

第2章



「おばあさんが亡くなられたそうだ」

 空音が荷物を手に職員室に入ると、担任の須山はすぐに空音に近寄り、そのまま廊下へと促し、小さく耳元でそう告げた。
「病院まで送るから」
 空音は無言で頷いた。祖母は今の空音にとって唯一の肉親である。それは学校では担任を含め教師たちの間では知られた話である。
 須山の運転する車の助手席で、空音はただぼんやりと見慣れた景色を眺めていた。
 心配げに須山が時折声をかけるが、空音は小さく返事を返すだけだった。
 ふと思い出したように空音は顔を須山のほうに向けた。
「先生、わたし宿題出してない」
「今はそんなことはいいから」
 呆れたように須山は言い、気になるなら今出しておくか?と続けた。空音は素直に頷くと、鞄の中から今日提出するはずだった課題を全部出して、言われた通り、後部座席に置いた。
 それから空音は無言だった。整った表情はどこか遠くを見つめているようで、喜怒哀楽のどの感情も当てはまらないような、そんな表情で、何とか精神状態を保っていた。


 空音が病室に入ると目に飛び込んできたのは祖母の長年の友人である峰子だった。
「空音さん……」
「峰子さん」
 峰子は目を真っ赤にして祖母の横に座っていた。空音以外に身内のいない祖母が最も頼りにしていた女性がこの峰子である。空音のことも実の孫のように可愛がってくれ、空音もまた幼い頃から慕っている。
 峰子の隣に立ち、ただ無表情でその姿を見下ろした。それと入れ替わるように、峰子は立ち上がると、空音に一礼をして病室を出て行った。
 しばらく空音は呆然としていた。
「―――おばあちゃん」
 小さく消え入りそうな声が零れ落ちたが、それ以上は言葉にならなかった。
 今朝、笑顔で送り出してくれた祖母の顔はもはや笑みのひとつも浮かべてはくれない。ただ眠っているかのように穏やかな白い顔が空音の瞳に焼きついた。今にも目を覚まして自分の名前を呼んでもらえるような気がしたが、そんなことが起きるはずもないことも頭ではわかっている。
 覚悟はしていた。
 夏の初めに体調を崩し入院した日から。いや、もっと前から。心筋梗塞で倒れ、それまで営んでいた料亭を閉めることになったあの日から。いつかはこうなることを空音は心のどこかで覚悟していた。
 それでも、その日はこうやってあまりにも突然おとずれる。頭でわかっていても、心は立ち止まったまま状況を受け入れることができずにいた。自分をいつも包み込んでくれていた温かい手に触れると氷のように冷たい。
 ただ静かな時間だけが流れ、やがて空音はぺたんと床に座り込んだ。冷たく固い感触が祖母の手の感触と同じように感じられ、そのまま床に伏すように倒れこんだ。


「空音さん!」
 異変を感じて病室に飛び込んできた峰子が手を差し伸べ、抱き起こしたが、空音は意識を失っていた。
「松野さん」
「ここにおります」
 峰子が声をかけると、身なりのいい初老の男が現れる。
「空音さんをお屋敷までお運びしたいのだけれど」
「承知いたしました」
 松野はそれから、と言葉をつないだ。
「奥様、空音さんの学校の担任の先生が待合室でお待ちです。いかがお伝えいたしましょうか?」
「まあ、それは気づかず失礼なことをしてしまいましたね。私がいいようにするわ。空音さんをお願いします」
「かしこまりました」
 峰子は姿勢を正すと、表情を引き締め、病室を後にした。


   




   



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