蒼き月の調べ

第2章



「空音、ホテルの仕事は順調?」
「うん」

 久しぶりに制服に袖を通し、教室に集まる生徒たちはそれぞれに夏休みに体験中の職業訓練の話に花を咲かせている。その日は夏休み期間中に2日ある登校日だった。
 空音も例にもれず友人たちと職業体験の話をしていたが、やはり空音が通っているホテルメロディアーナは選ばれた優秀な生徒しか行くことができないため、皆興味津々だ。調理科からは空音ただひとりで、あとは普通科の将来ホテル業界への就職を希望する生徒2名だけ。周囲からしてみれば空音が一体どのようなことをさせられているのか興味があるようだったが、当の空音は頭の中でホテルメロディアーナのオーナーだという柊弥のことを考えていた。いつも高級スーツに身をつつみ乱れたところひとつない大人の男は何を考えているのか、あまり笑みを見せることもなく無表情でいることの方が多い。
「なんか急にね、ピアノを弾けって言われて」
「はぁ?」
 突然空音の口から飛び出した発言に友人のひとり、夕海は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「なんでまた」
「さぁ。よくわからないんだよねぇ」
 空音にもどうしてあんなことになったのかいまだによくわからない。
 いきなり柊弥に呼び出されたかと思えば、ピアノを弾けといわれ、それからは柊弥が顔を出すたびにピアノを弾いた。それはときに規定時間内の終了間際だったり、終了後だったりとまちまちではあったが、時間にしてみればわずか15分程度のことだったので特に負担に感じることはない。少しでも遅くなれば柊弥の秘書の和義が家まで送ってくれた。
「空音がピアノ上手いのは知ってるけど」
 クラスでの合唱や音楽祭の出し物ではたいてい空音がピアノ伴奏をつとめている。音楽科以外のクラスでは趣味でピアノを習っていたり、幼い頃から経験がある生徒が伴奏することになるため、音楽科のピアノ専攻の生徒の演奏とはかなりレベルが違う。それでも空音の演奏は音楽科の生徒とあまり差がなく、以前も音楽教師のひとりに音楽科への転科を強くすすめられたことさえあったほどだ。
「オーナーがピアノ好きみたいで」
「へえ」
「でも、いつも無表情でちっとも笑わないんだよね」
「なにそれ」
「で、どうにか笑わないかなーと思って、この前『ねこふんじゃった』を弾いてみたんだけど」
 ぶっ、と夕海は吹き出した。
「やっぱり笑わなくて、眉間に皺を寄せてこーんな風に難しい顔になっちゃって、どうしたら笑うんだろうね、あの人」
「いや、わたしにはそれ以前に、その状況が意味がわかんないよ」
「そう?」
 あんた、一体何しに行ってんの、というように心底理解不能な状態に陥っている友人たちの前で空音はにこにこと笑っている。
 そう、空音はけっこう真剣なのだ。全く笑わない柊弥をどうにか笑わせてみようと、いろいろ駆使してみるのだが、決して笑ってはくればいのである。
「うーん、何かいい方法ないかな」
「いや、だからレストランの方はどうなのよ」
「え?」
 空音は言われて初めて、自分はレストランで職業体験をしていることを思い出した。
「みんな優しいよ」
「へえ、意外。ホテルって厳しそうなのに」
「そんなことはないよ。いろいろ親切に教えてもらえるし、オーナーも別に悪い人じゃないし」
 笑ってくれないけど、と心の中でつぶやきながら柊弥の顔を思い浮かべた。
 ふと、音大の話を持ち出されたことも思い出したが、すぐに自分には関係のないことだと頭の隅へと追いやった。そうしていると、勢いよく教室の扉が開いて、只ならぬ様子で担任教師が姿を現した。教室にいた全員が一斉に視線を向けたが、担任はただひとりの姿を探した。
「―――杉山、いるか?」
 はい、と顔を上げる空音に、すぐに帰る準備をして職員室に来るように告げた。
「なにかあったの、空音」
「さあ?」
 空音は首をかしげて立ち上がった。

   




   



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