蒼き月の調べ




 柊弥は10日間の海外出張を終えて帰国するなり、ホテルメロディアーナに立ち寄る。仕事中考えることなどなかったはずなのに、なぜか日本に着くなり気にかかって仕方が無い。
 しかし、お目当ての人物に会うことはできなかった。夏の初めに空音と再会し、すでに季節は秋へと向かう残暑の日々であったが、夏休みはあと数日残っているはずだった―――にもかかわらず。

「どうやら祖母が亡くなられたようです」
 自社ビルのオフィスに戻る車内で、和義は空音の雇い主である支配人の言葉をそのまま伝えた。
「1週間前に欠席する旨の連絡があり、その後学校の方からそのように伝えられ、残りの期間は不参加とのことです」
 柊弥は無表情のまま車窓の外を眺めた。都心の町並みは変わらない。
「祖母と二人暮らしだと言っていたな」
「はい」
 何かを考え込むように黙り込んでしまった柊弥に和義は、静かに問いかける。
「気になるようでしたら彼女の自宅に寄りますが?」
「…いや、いい」
 ―――たかだか高校生の小娘じゃないか。
 気にかける理由などもはや何も無い。彼女が自分の才能を試したい、そのために援助して欲しいといえば、それなりに考えてもいいのだろうが、空音はきっぱりと断ったのだ。これ以上、柊弥が気にかける必要はない。
 これまでもそうだった。
 余計なことに、しかもくだらないことに気を回している余裕などどこにもない。出張から戻ってきた柊弥のスケジュールはもう朝から晩まで埋まっているだろう。そして待っていましたとばかりに会議も予定されているはずだ。
 女などに構っている暇はない。
 時折ちらつく端麗な少女の横顔を振り切るように、柊弥は冷笑した。
 ―――身内を失った彼女の行く末を心配などしている場合ではない。
 信号で止まった車内から外を見れば、夕暮れの忙しない街には帰宅を急ぐ人で溢れている。外は蒸せるような熱気が漂っているのだろう。常に空調の整った場所を移動し、今もまた快適な空気に包まれた車内にいる柊弥は自分とは別の世界に住む人々を一瞥すると、向かいに座る秘書に視線をやり、仕事の話を切り出した。
 有能な彼の秘書は淡々とそれに応じ、それは自社ビルに到着するまで続いた。


「ふざけるな!!」
 眉を吊り上げ、部下を睨みつけた柊弥は珍しく声を荒げた。常に恐れられ、冷酷に処分を言い渡したり、周囲を凍らせるような発言をすることは度々あったが、このように怒り露わに声を上げる姿は秘書の和義も滅多に見たことはなかった。
「出て行け」
 冷たくそう言い捨てると、蒼白になった顔の男はがっちりした見た目を縮めたまま一礼するのも忘れてそそくさと逃げるように出て行った。
「ご機嫌がよろしくないようで。彼には何の責任もないのにお気の毒なことだ」
 しばらく続いた沈黙を破ったのは和義だった。声を上げた上司に驚きはしつつも特に気にする風でもない和義の態度に、柊弥は少し冷静さを取り戻す。
「何でもかんでも仕事を抱えすぎでは?」
「他にやる者がいないんだから仕方が無い」
「柊弥の下にいたら有能な人材ほどさっさと逃げ出すんじゃないかな」
 苦笑しながらそうつぶやく和義に柊弥は無表情のままパソコンのモニターを一点に見つめている。
「癒しを求められたらいかがです?」
 和義の言う癒し、が何を指し示しているのか柊弥はすぐに理解したが、それには応えなかった。それを見て、和義は表情を引き締めると、先ほど男が出て行ったドアをちらりと見た。
「―――で、やはり切り離すおつもりですか?」
「もちろんだ。これ以上尻拭いはできない。決して能がないわけではないが、あの人のやり方はもう古い。新しいことを取り入れることもせず古いやり方に固執していたのでは生き残れない」
「そうですね。散々彼には支援を続けてきましたけれど、思うような結果も得られず赤字の一途を辿っていますから。ただそうすればなにかしらのアクションがあるでしょうね」
「そうだろう。あの人の海棠家への執着は計り知れない」
「それだけ魅力的なんでしょう、”柊弥様”の地位が」
「和義、周辺には気をつけろ」
 和義は自分の上司を見てくすりと笑った。
「何年あなたの傍にいると思ってるのかな」


   




   



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