蒼き月の調べ




 相変わらず流麗な調べに、柊弥は感嘆の息を吐く。と同時に扉が開いて、快活な拍手が響いた。
「さすが、柊弥が絶賛するだけのことはあるね」
 柊弥とさほど年の変わらないその男は優美な笑みを空音に向けてきた。長い髪を一つに束ね、どこか芸術家風情の漂う男。この男の名前は鳳仙甲斐、音楽一家で有名な鳳仙家の三男坊である。
「甲斐、いきなり入ってくるな」
「ひどいなぁ。自分から呼びつけておきながら。ま、でも稀に見る収穫が得られたから良しとしてあげるよ」
 いたずらっぽく笑うその後ろから、秘書の和義も現れた。
「中断しないように心がけたつもりですが、いけませんでしたか?」
 柊弥が甲斐にある人物の実力のほどを見てほしいと頼んだのはつい先日のことだ。
 突如大人の男たちに囲まれた空音は困惑げに柊弥を見上げた。それに気づいた甲斐は柊弥が言葉を発する前に、ピアノの前で座ったまま呆然としている空音の前に跪くと微笑んだ。
「初めまして、柊弥の友人で鳳仙甲斐。今は音大で講師をしている。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
 空音はつられて頭を下げたがいまいちこの状況が理解できていないようだった。
 柊弥は大きくため息をつくと、その険しい表情のまま空音に告げる。
「空音、音大に行く気はないか?」
「音大?」
「そうだ」
「音大に行って何をするんですか?」
 きょとんとして空音は真面目に尋ねる。
「本格的にピアノを学んでみないかと言っている」
「どうしてですか?」
 至って不思議そうにしている空音に甲斐はくすり、と笑う。
「君には才能があるからだよ」
「才能って何の才能ですか?」
「ピアノ」
「ピアノ?」
 ここまではっきり言われても空音はいまいち理解不能の状態で、困ったように今度は視線を向けた。空音が会話についていけなくなると和義は必ず間に入って空音を助けた。
「何度か聞かせていただいた空音さんのピアノが大変お上手ですので、ピアニストの鳳仙甲斐に来ていただいたんですよ。彼もまたあなたのピアノの腕を認めたようです。本格的に学べば空音さんがプロになるのも夢ではないということです。常々、私共は才能ある若い人材に投資を行うこともございますので、その一環で空音さんをお誘いしているのです」
 子どもに言い聞かせるように言葉を選びながらゆっくりと話す和義の言葉に、やっと状況を把握したらしい空音は呆気に取られ、しばらくぽかーんとしていたが、やっとの思いで声をだす。
「あの、無理です」
「経済的なことでしたら心配には及びませんよ。もちろん試験は受けていただきますが、奨学金制度もございます」
「わたし、ピアノよりもオルガンの方が好きなので」
「オルガン?」
「はい。パイプオルガンです」
 今度は空音が三人の大の男たちを唖然とさせた。
 一番に反応したのは甲斐で興味深そうに空音を見つめる。
「面白いねぇ。空音ちゃんはピアノよりもオルガンが好きなんだ?どうして?」
「どうして、でしょう?」
 空音は首をかしげる。
「歴史の重さが音に現れるからでしょうか、音の深さがまるで違うから」
「空音ちゃんはパイプオルガンを弾いたことは?」
「一度だけ、オルゴール博物館で弾かせてもらったことがあります。家にはごく一般的に売られているオルガンしかないので」
「パイプオルガンを弾きたい?」
「弾けるなら…」
「俺のいる風蘭音楽大学にはパイプオルガン専攻科があってね、専門的に勉強ができる」
「大学ですか…」
「大学には行きたくない?」
 はい、とあまり乗り気ではない空音の声に甲斐は苦笑する。
「と、本人はこう言ってるけど、柊弥?」
 柊弥は憮然とした様子で、空音に一瞬目をやると、萎縮するでもなくどこか強い眼差しを向けてきた。挑戦的というそういうものではない。それは強い意志の表れだ。
「空音さん、お時間は大丈夫ですか?」
 あ、と声を出して腕時計を確認した空音は思いっきり立ち上がる。
「お送りいたしますよ」
「いえ、電車で帰りますから」
「こちらが無理を言って時間を延ばしてもらったのです。薄暗い中、女子高生をひとりでお帰しするわけにはまいりませんので」
 和義の笑みに空音は思わず柊弥を見る。柊弥が黙って頷くのを確認すると、頭を下げて、大人しく和義に従って部屋を出ていった。それを見送って、甲斐は柊弥に向き合う。
「女子高生にしては大人びてるね。なんだか中身が釣り合ってないところが可愛らしいけど。ハーフかな?」
「おそらくクォーターだ」
「おそらく?」
「まだ確認中だ。いろいろと複雑な家庭のようだ」
「へえ」
「柊弥がそこまで調べるなんて珍しいね。確かに興味深い子ではあるけど」
「お前も和義も余計なことばかり言う。―――で、彼女は通用しそうか?」
「適切な指導を受ければかなり伸びるんじゃないかな。でも本人はピアノよりもオルガンの方が好きだと言っているし、そもそも大学に行く気もなさそうだよ?」
「そのようだ」
 とは言いつつも諦める気はなかった。なにがそうさせるのかわからない。そんな柊弥の様子に甲斐は楽しそうに笑う。
「まさか、惚れた?」
 ストレートな物言いに、柊弥は柳眉を寄せる。
「女子高生にか?馬鹿な」
「恋愛に年は関係ないけどね」
 そう言うと、甲斐も「じゃ」と言い残して部屋を出て行った。それを視線だけで見送ると柊弥は小さくため息を零した。


   




   



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