サクラの木―番外編―


花の盛り、淡い恋


(3)

「沢井、先輩」

 職員室を出た彼女を追いかけるようにして、俺は初めてその名前を呼んだ。
 どうしてかはわからない。
 彼女は不思議そうな顔でこちらを振り返った。

「あの・・・」

 いきなり声をかけてしまったものの、何を言えばいいのかわからない。一体どういうつもりで、俺は彼女を呼び止めてしまったのだろう。
 
「柏木、くんだっけ?」

 俺がどうしようか口を閉ざしたままで言うと、沢井先輩がおそるおそる、というように俺の名前を口にして、俺はただ驚いた。まさか、自分の名前を知っているとは思わなかったからだ。

「春に見学に来てくれた子でしょう?」

 驚いた風の俺の姿に確信したのか、彼女はあのときと同じにこやかな表情でそう言った。

「あの、はい」
「残念、サッカー部に入ったんだってね。時々ね、耳に入ってくるの」

 友人が話でもしていたんだろうか。
 筝曲部とは縁の深い囲碁将棋部に入部した友人の顔が思い浮かんだ。

「あの・・・」

 たぶん、ここで言わなければ、何も告げることのできないまま卒業式を迎えるのだろうことはわかりきっていた。
 ひんやりとした空気の漂う廊下には誰一人歩いてはいなかった。

「僕は・・・沢井先輩に憧れてました」
「え?」
「あなたは僕の憧れの人です」

 もう一度はっきりと口にして、その瞬間に穴があったら入りたいような恥ずかしさに襲われた。
 こんなことを急に言われても、彼女はきっと困り果てるだろう。彼女の顔を見るのが怖くなって思わず俯いた。このまま走り去ってしまおうかと頭をよぎる。どうせもう顔を合わせることなどないのだから。

「ありがとう・・・」

 静かにそうつぶやかれた言葉にハッとして顔を上げると、ほのかに頬を染めた沢井先輩が笑っていた。
 俺は、そのまま頭を下げて一礼すると、無我夢中で駆け出した。きっと先生に見つかったら、廊下を走るな!と大声で怒鳴られそうなくらい全力疾走で。

 卒業式で、背筋を伸ばしまっすぐに前を向いて颯爽と入場してくる沢井先輩の姿が眩しいくらい綺麗だと思えた。あの人とどうにかなりたかったわけじゃない。付き合いたいとか、彼女になってほしいとか、もしかすると心のどこかにそんな気持ちがなかったわけではないけれど、それでも、彼女の隣を歩くにはまだまだ自分では幼いということはわかっていた。
 だから、あなたに憧れている、その気持ちは正直な気持ちだった。その気持ちを伝えられたのだから、後悔することはない。
 『旅立ちの日に』を歌う沢井先輩の後姿は僅かに震えているのがわかった。俺にはこんな後ろの方で、それを静かに見守っていることしかできない。

 卒業式が終わってしばらくすると、校庭の桜の木々が満開になった。春休みに入ってからも部活が休みになることはない。
 桜の花びらに迎えられながら、俺はまっすぐにサッカー部の部室に向かう。

 練習中、体育館裏にまで飛んでいったサッカーボールを取りに行くと、一本の桜の木がまた満開に花を咲かせていた。この桜の木の伝説を知ったのはもう少し後のことだった。



END

  



   



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