サクラの木


第9話 サクラサク

(3)

 確かにそれはどこかで聞いたことのある懐かしい声だった。
 しゃがみこんだまま顔を上げると、そこには車椅子に座る河野くんの姿があった。

「会わないつもりだったんだけどな」

 少し気まずそうに苦笑するその顔は河野くんに違いなかった。

「どうして・・・」
「こんな姿、見られたくないから」

 そう言った河野くんは以前よりも少し痩せて、髪も伸びて、大人びたように感じられた。

「好き…。河野くんが、好き、です」

 唐突に、本当にいきなり…何も考えずに口から飛び出した言葉に、自分でも驚いてハッとしてしまう。河野くんもまた驚いたように目を見開いてわたしを見ていた。
 言ってしまってから恥ずかしさでいっぱいになったけれどそれよりもなによりも、これまで我慢していたものが一気にこみ上げて今度は急に涙がポロポロ零れ、思わず地面に膝までついて完全に座り込んでしまった。
 何度も何度も涙をぬぐってみるけれど、あふれ出してきたものはどうやっても止めることはできない。

「そんなに泣かなくても・・・」
「だって」

 せっかく綺麗にメイクもしてもらったのに、きっともうぐちゃぐちゃだろうと思えた。泣きじゃくるわたしに河野くんはゆっくりと近づいてきて、ハンカチを差し出してくれた。
 わたしがハンカチを受け取ると、河野くんの右手はそのままわたしの左手に触れた。

「ごめん、迷っていたんだ」

 座り込んだまま少し顔を上げると、車椅子の河野くんの顔がすぐ傍にあった。本当に、河野くんだ、そう思うとまた涙があふれ出てくる。
 河野くんはわたしが落ち着くまでじっとそのまま手を差し伸べてくれていた。

 やっと涙がおさまると、河野くんに「ちゃんとしたところに座って」、と近くのベンチに案内された。

「何も背負うものがなくなったら、と思った。どれだけ時間がかかるかわからないのに。もたもたしてたら沢井さんだって他の男と付き合い始めるかもしれないのに」
「そんなこと」

 あるはずない、と言おうとすると、河野くんが優しく微笑んでくれた。

「手紙は、本当に嬉しかった。何度も返事を書こうと思ったけれど、何を書けばいいのかわからなかった。ここでの生活は苦しいことが多かったから。きっと沢井さんは大学生活を満喫しているだろうと思ったし、それなのに、俺が弱音とか愚痴とかそんなこと書き綴って、幻滅されるのも嫌だった」
「わたしが河野くんに憧れることはあっても、幻滅することはないよ」
「俺は沢井さんが思ってるほど、いい男じゃない。ずっと優等生である自分を演じることで、後悔のない人生を送っていると思いたかっただけだ。本当は怖くてたまらなかったのに。本当は情けないくらい弱いのに」

 河野くんはいつだって誰も知らないところでたくさん努力してたこと、わたしは知っている。みんなに見せてた河野くんが本当の河野くんじゃなかったとしても、河野くんの作文や、絵、いろんなところに、河野くんの本当の姿が表れてる。人は誰だって弱い。きっと大人になってもそうだと思う。
 でなければ、妹を失ったとき、母はあんな風に精神的な病に陥ったりはしなかった。

「自分の弱さを知ってる人は真に強い人だってなにかで読んだ・・・。わたしは自分の弱さを知りながらも、その姿を誰にも見せなかった河野くんの強さに尊敬する・・・」
「沢井さんはそう言ってくれるんだね」

 穏やかな風が頬に触れた。


   



   



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