夏 君が微笑む




婚約発表。
地味に行うということで、パーティなどは行わないことになっていたけれど、私は絶対、場違いな場所にいる。
きっと、この先どんなに努力してもこんな場所に立つことなんてないと思う。

ホテル運営を主とする世界有数の大企業。
何もかもが私の常識を越えている。

ビクビクしている私を庇うように係長は立っているけれど、私は何もかもが不安だった。
いつも会社では上司と部下で、社員たちに爽やかな上司の笑顔を振りまく彼は、やっぱり作りものの顔だということを改めて実感させられるほどに。

ホテルメロディアーナの宴会場の一間で、それは行われた。
立食用テーブルに数々のご馳走が並べられている。
住む世界の違う人の隣で、婚約者のフリをする私。それはあまりにも滑稽に思えた。
これが終われば解放してくれると言った係長。
係長を好きな私。
この人を好きになっても決して叶うことがないのだと思い知らされる瞬間だった。


「なんだか、何もかもが凄いですよねぇ」
雰囲気に飲み込まれて圧倒されている私の側に水色のドレスを纏った空音さんがやってくる。
初めて見知った顔に出会った私は少しだけ安心する。
気づくと尚弥さんはなんだかお偉い人たちに囲まれていた。
「パーティはないって聞いてたんですけど・・・」
「そうですよねぇ。これってお食事会みたいなものなんですって。一般人からしたら十分パーティですよね」
ああそうか。
空音さんはごく普通の家庭で育った方だと聞いた。
整った美しい顔立ちに改めて、綺麗な女性だな、と女の私から見ても惚れぼれしてしまう。私よりも年下だなんて絶対に思えない。
「空音さんはその・・・お兄様の柊弥さんを好きになるのって怖くなかったですか?」
最初に会ったとき、不安だったと言っていた。
こんなに立場の違う人なのだしそんなの当たり前。
けれど、こんなことを聞いても、彼女は私とは違う。
空音さんは愛されているのだから。
片思いの私とは全然違うのだ。

「顔は怖いですよねぇ?でも笑うとけっこうかわいいんです」
とんちんかんな答えに私は思わず目を丸くした。
えーっと。
空音さんはにこにこと笑っているけれど。
そういえば、係長が空音さんは見た目と中身のギャップが激しいとかなんとか。
ていうか、あの怖いお兄様が笑う!?そ、想像できない。
いや、もうあの兄弟理解不能です。


「美絵さんは、尚弥さんに大切にされてますね」
「ええ!?」
ニッコリと微笑んでそう言う空音さんの言葉に私は、一瞬意味がわからなくなった。
大切にされてる?
誰が?
どこが?
「尚弥さんて普段あまり自分のこと話さないんですけど、美絵さんの話はよく聞きますよ?」
「ど、どのような話を・・・」
一体、何をしゃべってるのー!?
「仕事のこととか・・」

「空音」

空音さんが口を開いたところで、低い声が耳に飛び込んでくる。
うわ。怖いお顔のお兄様だ。
「ふらふらするなと言ってるだろう」
「えー?美絵さんとお話してただけよ?」

「あ、あの、こんにちは」

私はちらりと視線を向けられ慌てて挨拶をする。
このオーラは何なの。
係長はけっこう庶民的なところもあるけれど、このお兄様からはそんな雰囲気一切感じない。
「こんにちは。尚弥はもう来ると思うよ。じゃあ、空音行くぞ」
「イヤ。尚弥さんが来るまで一緒にいるの。1人でこんなとこに取り残されるなんて心細いもの」
ああ、なんて優しいお言葉。
そのとおり。
一般民には刺激が強すぎる。
怖い怖いお兄様は空音さんには逆らえないようで、相変わらず仏頂面で空音さんの後ろに立っていた。
空音さんはそんなことはおかまいなし、という感じで、私にいろいろと話し掛けてくれる。
けれども、恋人だと偽っている罪悪感か、私は素直に笑うことが出来なかった。


それからまもなくして係長が眉間に皺をよせてやってくる。
それを見たお兄様は引きずるようにして空音さんを連れて行ってしまった。
このご兄弟は強引というお言葉がよくお似合い。
「おい、美絵行くぞ」
この人も、なんか怒ってますけどー!?


「あ、海棠尚弥さん?」
かわいらしい声が係長を呼び止める。
振り返ると、そこには可愛らしいフランス人形みたいな女の子とその子をエスコートする男性が立っていた。
「どちらさまですか?」
係長は表情を変えずに2人を見て言った。
「あ、私の父がこちらのホテルの従業員なんです。榎原千里と申します。このたびはおめでとうございます」
「そうですか。ありがとうございます。じゃあ、急いでおりますのでこれで」
丁寧な言葉遣いだけど、明らかに不機嫌な声。
私は口を開くことすら許されず、名残惜しそうにしているフランス人形を背にスタスタと歩く係長に手首を引っ張られる。

「あの、いいんですか?」
「いいんだよ」
「でも・・・」
「こういうときにお近づきになっとこうって魂胆見え見え」
「そ、そうなんですか」
「そういうこと」
「ところでどこへ行くんですか?」
係長の足は止まらない。
私ははき慣れないヒールの靴を脱げないようにするために必死だ。
もう少しゆっくり歩いてください、という勇気は今はない。
「部屋」
「部屋ってどこの?」
「ホテルの部屋とってある」
「あ、そうなんですか」
じゃなくてー!
なんで私が係長と一緒にホテルの部屋に行かねばいかんのでしょうか!!
終わったら解放してくれるんじゃ・・・。
「わっ」
エレベーターを目前に、私はついに躓いて身体が傾く。
けれど、転ばないですんだのは、係長の手に力が入ったのと同時に、私の身体は係長の腕の中にすっぽりとおさまっていたから。
「す、すすみません」
「ドジ」
「・・・ハイ」
おっしゃるとおりです。
係長はそのまま私の身体を腕の中に埋めたまま動かない。
どうしよう。動悸が。
どきどきしながらなんと言っていいかもわからずにいると、耳元に熱い吐息を感じて、ひゃっ、と変な声をあげてしまった。
その瞬間、腰を掴まれ、強引にエレベーターに乗せられた。
どきどきする。
マズイ、マズイです。
誰もいない、この小さな空間に、二人。
会話はない。
私の身体は係長にしっかりと密着していて、しかも腰に手を回されている。
けれど、このまま温もりを感じていたいと思ってしまう私はやっぱりこの隣にいる人が好きなのだ。
このエレベーターがどこまでもどこまでも上っていけば・・・ずっとこのままでいられるのに。



  




   



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